『トリコロール/赤の愛』(Trois Couleurs ROUGE)
監督 クシシュトフ・キェシロフスキ


 トリコロールの三部作が、青・白・赤と進みゆくにつれ、次第に劇性を増し、愛における関係性というものが、描かれることの主題となってくるであろうことは、第二作の白の愛において充分予測されたことであった。

 個人的には、「白の愛」で語られた関係性において重要な意味を持って占められていた価値観が金と性であったことから、「赤の愛」では、そういう通俗的な価値観からは少し外れた、関係性のなかで創造される固有の価値観といったものが重要な意味を持ってくるのだろうと思っていた。その点では、老元判事と若い女学生という設定や二人を結びつけていくのが老判事の盗聴というかなり特異な趣味を巡っての出来事であることなどは、まさしくそういった関係性を描くために周到に用意されたものだったろうという気がする。

 しかし、結果的には、ジャン=ルイ・トランティニャン扮する退官判事とイレーヌ・ジャコブ扮するバランティーヌの関係よりも、キェシロフスキ監督のイレーヌ・ジャコブへの惑溺ぶりが印象づけられたという気がする。実際、退官判事の趣味が盗聴であることは、容易にキェシロフスキ監督の旧作『愛に関する短いフィルム』での覗きを想起させるし、盗聴が見えざる真実を探る行為であることを語る退官判事の言葉を待つまでもなく、人の感情や心理、運命といったところまでを含めた生命のエネルギーの流れの秘密を知りたいという、総ての作品にも通じる、キェシロフスキ監督の作家性と繋る大きなテーマとの関連性を連想させるものだと言える。そのために、劇中でバランティーヌと共に沈没する客船から救われる若い判事オーギュストが、若かりし頃の退官判事と二重写しないしはドッペルゲンガーとなっている以上に、退官判事は、キェシロフスキ監督のドッペルゲンガーではないかという気がしてくる。

 そこのところが考慮されないと、やはりイレーヌ・ジャコブの扮するバランティーヌが退官判事に心惹かれ、彼の夢によって暗示されるオーギュストとの運命的な出会いを果たすということが、ドラマの展開としていささか承服し難いようにも思われる。確かに、劇中では一度も姿を見せないバランティーヌの恋人(そのこともイレーヌの相手としては自身の分身しか登場させないという意味で徹底しているという気がするが・・・)が、いかにも度し難い男で、およそ魂の触れ合いなど求めそうにもない嫉妬と我執のみの人物であり、バランティーヌは、退官判事との関わりで初めて人生とは何か、生きることの真実は何処にあるのかといったことに対する苦悩と共に生きている人間と出会ったような描写がなされてはいる。しかし、それだけでは、いくら自分にもう一度会いたいが故に、退官判事が自身の盗聴行為を自ら告発したのだと知っても、若い女学生の心が動くとは思いにくい。そこで運命を持ち出してくるのは、流石に安易に過ぎるのだが、そういう意味では、キェシロフスキ監督の取った手段は、裏技とでも言うべきものかもしれない。少なくとも、お蔭でバランティーヌの退官判事への思いの変化を運命という形で丸呑みする必要はなかった。

 しかし、こうなってくるともう、この作品は、キェシロフスキ監督のほとんど「私映画」という様相を呈してくる。先にキェシロフスキ監督のイレーヌ・ジャコブへの惑溺ぶりが印象づけられたと述べたのもそれ故である。にもかかわらず、イレーヌ・ジャコブの魅力といった点では、従前の『ふたりのベロニカ』のほうがより光彩を放っていたという気がする。やはり女優の魅力は、作り手の思い入れ以上に、作品の質がもたらすものだということだ。

 それにもかかわらず、この作品が水準以上の作品となっているように見えるのは、逆に言えば、キェシロフスキ監督の力量がそれだけ大きいということでもある。色、テーマ、相関性など様々な桎梏を自らに課しながら、愛について語る三部作を見事に創り上げ、最後に、この三つの愛の物語の主人公たちを包括して、救われ生き延びる者たちという一つのイメージで登場させたところなど、観ている側に、愛についてのある種の感慨を抱かせずにはおかないだろうと思う。そして、三作品の主人公たちで唯一難破船に乗り合わせていないのが、主人公でありながら名前を与えられていない退官判事であることを思う時、改めて彼がキェシロフスキ自身のドッペルゲンガーであることを確信した。




推薦テクスト:「シネマの孤独」より
https://cinemanokodoku.com/2019/05/11/thedays/
by ヤマ

'95. 7. 6. 県民文化ホール・グリーン



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