『父と暮せば』
監督 黒木和雄


 黒木監督によれば、『TOMORROW/明日美しい夏キリシマによる“戦争レクイエム三部作”の完結編なのだそうだ。長崎、宮崎と来て、最後はヒロシマなのだなぁとの想いとともに、七年前に“こまつ座”の舞台公演で観た『父と暮せば』のことを思い出した。ライブ備忘録に日めくりカレンダーや時計の指針が変わるくらいで舞台装置も変わらないし、役者も二人だけ。小品と言えば、まさしく小品なんだけれども、それゆえ却って言葉の力、特に語りに宿る言霊の力が際立つ舞台だった。語り伝えることの大切さを訴える舞台で、まさに語りの力そのものを際立たせているから非常に説得力がある。…原爆の悲劇を語り継ぐことの大切さは今に知ることではないが、理念や論理ではなく生きた言葉で、知るのではなく解る気持ちにさせてくれ、認識するのではなく体感させてくれたように思う。翻訳劇の台詞と対極にある、生きた言葉の力を讃えたい。と綴った舞台で、すまけいが見事なまでに演じた父 竹造を映画では原田芳雄、梅沢昌代だった娘 美津江を宮沢りえが演じていた。

 舞台の『父と暮せば』を観たときは、やはり監督の言う“戦争レクイエム”的なものを強く刻み込まれ、とりわけ、戦渦を生き残った者の心が囚われる、自分が生き延びていることへの“申し訳なさ”や“いたたまれなさ”といった、心の傷の現れようの不合理なまでの痛ましさが、深く印象に残った覚えがある。特攻隊の生き残り隊員のつらい心象として触れることが多かったそれが、決して戦闘員だけのものではないところに衝撃を受けるとともに、同じ戦闘員でも他ならぬ特攻隊員ゆえに、生き残ったことで傷つく特別さというものがあったことに近いような特別な深手が原爆による被爆にはあるのだと思ったものだった。これは、死すべき者が死んでないとの、言わば“生き残った負い目”というもので、そこのところに黒木監督は、『美しい夏キリシマ』で吐露し投影した自身の心中に通じるものを覚え、井上ひさしの戯曲に惹かれたのではないだろうか。

 いかにもそんなふうに感じられる道具立てが揃っているだけに、また、事実そうであろうと思われるだけに、僕にとってはこの映画が戦争レクイエム以上に父娘の情愛を捉えた作品として迫ってきたことに、つくづく感銘を受けた。それでこそ、映画的に豊かな作品だとの証が立っているというものだろう。映画を観終えての劇場の出掛けに気づいたポスターの惹句におとったん、ありがとありましたと抜き出されていた台詞がまさしく象徴しているように、映画版『父と暮せば』は、父娘物語の情愛の細やかさに最も味わいのある出来映えだったような気がする。娘の心にあのような姿として浮かび上がり、対話を交わしてもらえる父親像として、このうえもない魅力と羨ましさを湛えていた。

 その功績は、とりわけ原田芳雄の絶妙なる存在感と演技力によるもので、台詞まわしの発語のニュアンスの味わい深さが重なって次第に水嵩が堰を越えるようにして、いつしかグッと込み上げてくる感情に包まれたのだという気がする。場面としてのインパクトでは、すまけいの舞台でもそうであったように、物語は伝え聞くままに正確に伝承しなければと語る美津江に対し、“ピカ”の話は何であっても伝えにゃならんで、GHQが禁ずるんなら、証拠の残らん口伝えの昔話に盛り込みゃあ、えぇんじゃ。と、ピカ版一寸法師の語りをしてみせる場面の凄みと、娘を避難させようとして美津江が幼い頃によくしてやった“勝たせるジャンケン”を繰り返し、一向に勝とうとしない娘に反復させて別れを促す場面の濃密さが際立つのだけれど、値打ちがあるのは、いつしか堰を越えさせるべくヒタヒタと水嵩を増していたような、数々の場面での地道な演技なのだろう。娘を想う情愛に本当に溢れていることが伝わってきて、どうにも堪らなくなった。いい作品だ。




参照テクスト:NHK特集『これがヒロシマだ 原爆の絵アメリカを行く』


推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20041001
by ヤマ

'04. 9.24. テアトル梅田
      



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