『さよなら、クロ』
監督 松岡錠司


 引っ越しに使っていた三輪トラックや握り飯を入れた箱を新聞紙で包んだ学生の弁当、立て札にすぎないような“ダイヤ学生服”広告板やらに、いったい何時の時代設定なのだろうと思いながら観ていたら、映画『若者たち』('67) の主題歌を唄いながらのファイアーストームや『卒業』('67) 『俺たちに明日はない』('67) を上映している映画館が出てき、1960年代後半だということが判った。そして、それからの十年を高校に住みつき、人々に愛され、大往生の果てには立派な葬儀まで出してもらった犬の話だった。チラシによると原作は『職員会議に出た犬・クロ』というようで '61年頃から松本深志高校に実在したらしい。
 しかし、この作品が興味深く、しみじみとした感慨を残してくれたのは、'60 年代と'70 年代という二つの時代の変遷を巧みに写し撮り、今現在から見れば、既にどちらも遠い昔となって、なくし失われたように思える数々の風物や気風を懐かしく偲ばせてくれるからだろう。クロの物語というよりも、クロの観た高校生たちを描き、その十年後の高校生たちの姿を対照させて描くだけでなく、かつて高校生だった若者たちの十年後も描くことで、時代としての時の流れのみならず、個人にとっての時の流れをも併せて写し撮っているわけだ。どちらの時代にも何らかの形で経済的な貧しさの影が差していたが、生命感という点では今より豊かさを感じさせてくれるような気がした。
 亮介(妻夫木聡)たちの十年後には、屋外の石段で仲間同士で談笑しながら昼食をとったり、ファイアーストームで輪になって歌う高校生たちの姿はなく、軽音楽部の部室で独りギターをつま弾きながら、財津和夫の作詞作曲した『青春の影』が口ずさまれる。その一方で、十年前と何一つ変わらぬ映画館では『ロッキー』('76) が掛かっていた。僕自身がちょうどこの世代に当たるのだが、今やこういう古ぼけた映画館はほとんど姿を残していない。
 こういった細部に特長的な描出を感じさせる作品でありながら、僕にとっては、ノスタルジーを追った映画だったという印象が思いのほか少ない。作品の味わいとして最も印象深かったのは、人生というものの、不測でままならない危うさと何かに定められた道のごとき強固さについて、デリケートな匙加減で相反する双方を同時に感じさせてくれるところだった。
 人生は、運命に定められていると言うには余りにも主体的な選択の如何に左右されているものながら、意志の力で操っていくには及びもつかない代物だ。生きていくなかで出くわす事々や人物、あるいは行き掛かりによって、目覚めや発見、選択などを左右されながら、リセットのしようのない道を歩んでいくとしたものだ。確かにクロとの出会いがなければ、亮介は獣医にならなかったかもしれないが、クロと出会った者がみな獣医を志すわけではない。教室の窓に足を掛けながら、クロを振り返ったことで自殺を思い止まった雪子(伊藤 歩)にしても、同じ事だ。賢治(金井勇太)に夜間大学への進学の意思を促すことに果したクロの役割にしても、同じ事だと思う。その一方で、おそらくは孝二(新井浩文)の事故死が大きく迂回をさせたであろう亮介と雪子の関係については、クロの手術の成功とその後の老衰死が何かを与えたように見えながらも、十年余りの時を経ようと、収まるべきところに収まっていくのが人生の定めであるかのような思いもまた想起させる。
 時の流れが押し流していくものがある一方で、時の流れが醸成していくものがあるとしたものだ。移ろい行くもの、移ろい行きつつも変わらぬ何かを保ち続けるもの、保ち続けるのではなく少しづつ変化を遂げながらも決して移ろい行きはしないもの、などなど。クロのことよりも、時の流れというものについて、しばし思いを馳せたものだった。


推薦テクスト:「THE ミシェル WEB」より
http://www5b.biglobe.ne.jp/~T-M-W/moviesayonarakuro.htm
by ヤマ

'04. 1.16. あたご劇場



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