『カラー・パープル』(The Color Purple)
監督 スティーブン・スピルバーグ


 スピルバーグがその本領を発揮するのは、やはり娯楽性の強い作品であって、このような重みのある本格的な人間ドラマは向いていないようだ。この作品は一人の黒人女性を中心にその人生を真っ向から描いたものだが、スピルバーグの創り上げた画面は例によって美しく色鮮やかでスケールも大きいけれども、人生の重みとか胸を揺さぶる感動とかが現われて来ない。その最大の原因は、場面場面の昂揚に力が入り過ぎて、全体が見えて来ないことにある。人間ドラマでありながら、人物の掘り下げが甘く、イメージが曖昧になっている。これは彼の映画の特長なのだが、作品で最も重視されるのはストーリーではなく、キャラクターでもなく、個々の場面場面なのである。この作品でもそれについてはかなり凝った、効果もある演出を施していて出来もいい。しかし、個々の場面の出来が少々良くて印象的であったとしても、それらの場面を繋ぐ接着剤抜きではバラバラになってしまう。それでは、何よりもその連続性の中に重みを持つ人生とか人間の存在感とかが現われては来ない。場面場面が突出していてドラマをなし得ないのである。

 これが例えばパニック映画のような場合、本編としての集団劇の合間に老夫婦とか親子とかの個人を短くクローズ・アップさせて、その場面を印象的に刻むことで人生の深みとか人間の存在感とかを窺わせ、それによって本編の奥行を深めさせるのであれば、それこそ場面勝負なのだから、こういった演出が効果的なのだが、それと同じセンスで場面場面を撮って、それを繋いで人間ドラマとされてはたまらない。こういった描かれ方をされるために各登場人物が個々の場面での効果的な性格づけをされて、換言すれば、人物の性格が場面の演出効果に要求された形になってしまい、生きた人間としてのトータル・イメージが形成されないのである。だから、描かれる人生に血が通わず、重みも感動も薄っぺらなものになってしまう。スピルバーグは一人の人間の生と目覚めの過程に惹かれたと言いながら、過程を捉え得ず、結果だけしか描けていない。

 しかも、これほどに苛烈な人生を描きながら、画面の中に作り手の遊び心が余りにも無頓着に現われ過ぎで、好意的に見れば、余りにも過酷な人生をそのままに描くことに救いを与えているということにもなろうが、そのために作品が軽くなっていることは否めず、それによって映画を観やすくしてはいても作り手の視点を曖昧にした分、マイナス効果である。このような作品はもっと地道で確かな視点に支えられた演出でじっくりと撮らなければ、その題材の良さを損なってしまう。

 そういう訳でこの作品は失敗作だとは思うが、その失敗がスピルバーグの観せることの上手さゆえというのは、ちょいと皮肉である。観せるために作品の持つ映画世界を傷つけてしまうと、その結果いかに印象的で鮮やかな場面を展開しようとも代償が大き過ぎる。そういったエラーをおかさずに観せる画面づくりをすることの難しさということと共にスピルバーグの場面を観せることの上手さというものを改めて認識した。
by ヤマ

'86. 7.31. 高知松竹



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>