『マトリックス・レボリューションズ』(The Matrix Revolutions)
監督 ラリー&アンディ・ウォシャウスキー


 第二作を観た後、あれこれ最終作の予想をしたものだったが、やはりキーワードは「選択」だったし、キーパーソンはエージェント・スミス(ヒューゴ・ウィーヴィング)だった。

 ザイオンの側とマトリックスの側とで勝敗が決まるのではなく、手打ちとなって、一応めでたしめでたしとなるというのも予想どおりだったが、ツインズ(ニール&エイドリアン・レイメント)やパーセフォニー(モニカ・ベルッチ)の見せ場が最終作では増えるだろうとの思いは見事に外れてしまった。ほとんどがマトリックスの外でのドラマで、これでは映画のタイトルも最早『マトリックス~』ではなく、『ザイオン~』と名付けるのがふさわしいくらいだ。マトリックス世界の無機的な硬質感が気に入っていた僕の感じからすると、三作中、最も物足りない仕上がりだったが、最終作をあれこれと予想させる仕掛けに満ちた第二作があったお陰で、かなり面白く観ることができた。

 ハイライトとも言うべき、ネオ VS スミスの闘いのまるで『ドラゴンボールZ』のスーパー・サイヤ人の対決シーンを観るような既視感には少々鼻白むほどの相似性を覚えたが、その映像化技術の卓抜さには感心させられた。この三作に渡る壮大な物語の要点はネオとスミス、そして同時にどうやらオラクル(メアリー・アリス)とアーキテクト(ヘルムート・バカイティス)の対決でもあったようなのだが、ネオにしてもオラクルにしても、勝利の秘訣がまさに“身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ”みたいな話になっていたのは、何だかやけに古典的な真っ当さで微笑ましくもあった。

 密かに、最終作ではスミスが裏アンダーソンとしてリアルの側に存在し、登場してくるだろうと思っていた僕としては、ベイン(イアン・ブリス)がスミスの口調で「ミスター・アンダーソン」と声掛けを始めたとき、思わず「来た!」という気になったのだが、そうは問屋が卸さなかった。しかし、マトリックス側とザイオン側の手打ちの内容が、リセットをしない連続性の保証によって果されるとの予想を持っていた僕の目には、太陽なき世界に陽が昇り始めたことが、まさしく連続性の象徴のように思えた。陽が昇り、陽が沈み、そして再び陽が昇るという繰り返しは、決してリセットではない、連続性による繰り返しで、日の出・日没による一日という刻み目を入れながら、留まることなく続いていく“時間”の誕生を意味していた面があるのではなかろうか。

 しかし、そうも思いながらやはり気になるのが、あの初日の出を認めた公園が、手打ちによって姿を変えたマトリックス世界なのか、実は、あれこそがシリーズ三作を通して登場した唯一の現実世界だったのか、ということだった。マトリックスがプログラムで、マシーン・シティとザイオンがリアルであるとするならば、そのようなリアルの世界にあの公園は似つかわしくない。オラクルもアーキテクトも登場するから、様相を変えたマトリックス世界と観るのが順当だという気がする。しかしながら、僕のなかには理屈抜きに、ラストシーンで現れる太陽というのは、やはりバーチャルであってほしくないような思いがある。

 それでふと思ったのが、前作でのアーキテクトの言葉だ。ザイオンもまたプログラムのなかの世界であるとの設計者の言が、その設計されたプログラムたるマトリックスのなかで語られるところに何とも悩ましさがあって直ちに鵜呑みにはできないのだけれど、あのようにして最後に登場されると、結局あの二人が、対戦ゲームとしての主役をそれぞれ、オラクル婆さんがネオ、アーキテクト爺さんがスミスという形でキャラ選択し、老後のつれづれのよすがとして長時間に渡るバーチャル・ゲームの大熱戦に興じていた風情もあったように感じる。そうでないと、マトリックスもザイオンもマシーン・シティもプログラムに過ぎないままに、この長大な物語のどこにも現実世界が顔を覗かせないことになる。リアルとバーチャルの境界を問題意識として投げ掛けておいて、最終的には実際の現実描写がどこにもなかったというのでは、やはりルール違反だろう。そういう意味でも、マトリックス、ザイオン、マシーン・シティの総てがプログラムだったとするのであれば、最後の公園は現実でないといけないと思う。

 二人の老人が興じていたのは、とても高度なゲーム・プログラムで、マトリックス・システムを創りあげたマシーン・シティもザイオンも含めたゲーム世界のなかに、ゲーマー自らがインタラクティヴに傍役として参加もしながら、例えば僕が嘗て熱中した『ゼルダの伝説』『ファイナル・ファンタジー』のゲーム世界がそうだったように、光と闇、表と裏の二つを持つ世界の双方を行き戻りしつつ、ゴールを目指していたというわけだ。ゲーム・プログラムとして、ゲーマーに選択されているキャラのみが、ある種の経験値を重ねていくと、当初負っていたはずの限界を超えて双方の世界で異能を発揮できたり、ゴールに到るまで果てしなくパワーアップを続けていくようになっていたと考えると、ゲーム・プログラムというものの性質上もっともな話で、必然性があり、ネオとスミスのことにも納得がいくというものだ。ゲーマーに「選択」されているキャラだというのは、ゲームの世界では絶対的な根拠であって当然で、第一作でもモーフィアスに及ばなかったネオのほうが「選ばれた存在」であるが故に主役を担っていったように、本来なら恐らくスミスよりも強いはずのツインズも、ゲーマーに予め選択されたキャラでない以上、及びでないのだ。

 この壮大な三部作の最終的な顛末をそのように受け取ってしまうと、言わば、夢落ちみたいなもので拍子抜けしそうなところだが、最終作の予想の際に夢落ちだけは勘弁してほしいなどと思っていたにもかかわらず、好敵手同士の爺さん婆さんが興じていたゲームだったのかもしれないと受け取っても拍子抜けを感じない。むしろ、そのことで、逆にこの三部作の凄さというものを知らされるような気さえした。個々の独立した作品として観ていくと、やはり第一作が傑出していて、次第に冴えを欠いてはきたものの、最終作が最劣位にあると感じられるにしても尚そんじょそこいらの作品に引けを取るものでないことは確かだ。




推薦テクスト:「La Stanza dello Cine」より
http://www15.plala.or.jp/metze_katze/cinema2003.2.html
推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
https://cc-kochi.xii.jp/taidan/0311matrix.html
推薦テクスト:「シネマ・サルベージ」より
http://www.ceres.dti.ne.jp/~kwgch/kanso_2003.html#matrix_revolutions
by ヤマ

'03.11.19. あたご劇場



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