『オール・アバウト・マイ・マザー』(All About My Mother)
監督・脚本 ペドロ・アルモドバル

 錚々たる受賞状況である。アカデミー賞最優秀外国語映画賞やカンヌ映画祭最優秀監督賞など堂々30賞受賞だけあって、実に褒めやすい映画だという気がする。登場人物や色彩設計、音楽の使い方、衣装の趣味など、どれをみてもアルモドバルらしさに満ちていて、やはり集大成と言うべき作品なのだろうとは思う。しかし、初期のパワフルでキッチュなテイストに惹かれていた僕には、昔と違って洗練され過ぎてしまったアルモドバルは、少し物足りなかった。洗練へと向かってきた彼のフィルモグラフィのなかでは、僕にはアタメあたりが丁度のバランスで最も気に入っている。

 豊胸手術をした女装趣味のバイセクシュアルの男エステバンとの間に生まれた最愛の息子エステバンを事故で失った主人公マヌエラ(セシリア・ロス)が、約二十年ぶりに亡き息子の父親を探す旅に出て、久しぶりに会う昔の演劇仲間アグラード(アントニア・サン・ファン)や初めて出会う女性たちとの関わりのなかで、息子エステバンと同じ男を父とする赤ん坊をエイズで死ぬ両親に代わって引き取り、エステバンと名付けて育てる話だ。

 亡き息子の父親のみならず、アグラードもいわゆるニューハーフで、親しくなったベテラン女優ウマ(マリサ・アレデス)はレズビアンだし、バイセクシュアルのニューハーフとの間の赤ん坊を残してエイズで死んでいった若い女ロサ(ペネロペ・クルス)が修道女であることなど、かつて過激で挑発的で不謹慎だと謗られたりもしたアルモドバル的シチュエイションが、今や格別とんでもないことだとは言われもせず、むしろ情緒的共感を誘う秀作として三十もの映画賞を受賞するようになっている時代の変化のほうが面白いという気がする。

 劇中映画として登場するイブの総ては、ベテラン女優のエピソードやこの映画のタイトルにも引用されているわけだが、母なるものの総てとしてマヌエラが体現しているのは、とどのつまりは“受容”であるように思う。愛する息子の死を受け入れ、そのきっかけとなった存在なのに女優ウマとの親交を受け入れて働き、亡き息子の父親との間に子を身籠った女なのにそれを受け入れて世話をし、残された子供を受け入れて養育する。亡き息子の誕生すら知らぬままに自分のもとを去った男との再会に際しても、自分のみならずアグラードやロサにしていった彼の仕打ちにもかかわらず、エイズによる死を目前にした彼をそのまま受け入れてやっていた。この受容の大きさは、ただものではない。そして、それが母なるものとしてだけではなく、アルモドバルの敬愛してやまぬ女性性の美徳として、憧れに加えて畏敬すら抱いているように浮かび上がってきていた。

 それにはアグラードの存在が効いている。自らやや自嘲的に、しかし自負をも窺わせつつ、“楽しませる”という、自身の名前の意味するところを語る彼のキャラクターもまた、マヌエラと共通する大きな受容の心と生き方を示していた。公演中止の緊急事態に瀕しながら、アグラードに性欲処理を押しつけてくる劇団の男のいい気さ加減や醜悪さには、とくに男性非難とともに男社会における被差別者としての社会的弱者である女性と、生来の女性以上に蔑まれがちな性転換者としての女性なればこそ、逆に獲得しうる強さと大きさというものとして、“受容”とか“パトス(受苦)”といったものを作り手がイメージし、畏敬しているように感じられたのだ。

 そういう意味では、悪口の言いにくい映画ではある。三十もの映画賞を受賞したのは、そればかりでもあるまいが、全く関係なしとも言えないような気がした次第だ。そして、マヌエラとアグラードの再会の場面には、没後四半世紀を迎えるパゾリーニへのオマージュのようなものも感じた。





推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
https://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2000ocinemaindex.html#anchor000187
by ヤマ

'00. 6.18. 松竹ピカデリー1



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