『ボウリング・フォー・コロンバイン』をめぐって
神戸美食研究所」:(タンミノワさん)
Across 211th Street」:(Tiさん)
多足の思考回路」:(めだかさん)
DAY FOR NIGHT」:(映画館主・Fさん)
my jazz life in Hong Kong」:(Kaoriさん)
La Dolce vita」:(グロリアさん)
This Side of Paradise」:(junkさん)
ヤマ(管理人)



 
書き込みNo.3696から(2003/07/20)

(タンミノワさん)
 続けてタンミノワです。拝読しましたよ。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、タンミノワさん。ありがとうございます。

(タンミノワさん)
 カナダ色の映画っていう観方するとヒジョーにまた面白い映画ですよね。

ヤマ(管理人)
 僕には『マニファクチャリング・コンセント』の印象が、とても強いんですよね。

(タンミノワさん)
 カナダのプロモーション映画にも見えますしね。

ヤマ(管理人)
 安全だよ~って?(笑)

(タンミノワさん)
 この映画見たら、「住むならアメリカよりカナダ」って思いますよね(笑)。しかし、私にとっては、どこまでほんとなのかわかりませんが。

ヤマ(管理人)
 作り手の言いたいことはよく判るんですけどね(笑)。でも、他の事柄についてでもいいんですけど、何を以てホントと受け取ったり、まさかって思うかっていうと、けっこう流されている情報の量に対する親しみ具合だったりするんですよね。言わば、あらゆることが、どこまでほんとなのか判らないってのが、唯一の本当のことだったりするんじゃないでしょうかね。

(Tiさん)
 ヤマさん、こんばんは。ちょっと出遅れちゃいましたが、『コロンバイン』拝読しました。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、Tiさん。ありがとうございます。

(Tiさん)
 僕は、銃やアメリカの問題以上に「バイアスがたっぷりかかってるメディアに、我々はいつの間にか洗脳されているんじゃないか」っていう問題提起の方が恐ろしかったんですよね…。

ヤマ(管理人)
 そうです、そうです。
 僕がこの作品を観て『マニファクチャリング・コンセント』を想起したというのもまさに、その問題提起の仕方が非常に似通っていたからです。10年前の日誌に綴っているようにさまざまのメディアにおける膨大な過去の記録に対して試みた縦横無尽の編集と新たな映像による加工は、強烈なインパクトと説得力をもたらしながらも、それ自身のなかで“マニュファクチャリング”を実践することで、情報処理の持つコワサというものも同時に感じさせる作品となっている。 それを確信的にやっていることをほぼあからさまに伝えてくるというのは、かなり凄いことではなかろうか。ということなんですよ。

(Tiさん)
 『マニファクチャリング・コンセント』は、ヤマさんの御本にも出てきて気になってたんですよねー。

ヤマ(管理人)
 10年前に観たときは、相当な衝撃でした(笑)。これは凄い!って。

(Tiさん)
 8/15に、中野でこれと『チョムスキー 9.11 』の上映会があるみたいなんですけど…たぶん行けません(涙)。

ヤマ(管理人)
 確か四月には国分寺でだったか上映されてたみたいですよ。新聞で見掛けました。だから、また機会はあるでしょう、きっと。
 カナディアン・テイストと僕が指している、メディア・リテラシー教育の洗礼というのは、まさに、この不敵なまでの、情報メディアに対する胡散臭さを観ている側に気づかせるような作品を創造することだろうと思うんです。
 しかも、大事なのは、そういうことにまでは思いの及ばなかった受け手に不本意なメッセージを与えるような手法であってもいけないわけです。例えば、ちょうど今『バトル・ロワイアルII』が公開されてますが(IIは、とほほ作品ながら、Iは僕は支持してるんですけど)、強烈なアイロニーっていう表現方法は、時として勘違いをされちゃいますよね。
 そういうのは、はなからフィクショナルな劇映画の世界ならいいんですけど、現実を素材として加工処理するドキュメンタリー映画というジャンルにおいては、メッセージ自体が勘違いされることは、より危険なわけですよ。

(めだかさん)
 ヤマ様、お久しぶりです。踊れ!と言われてメディアの言うままに祭りで踊りまくっている『踊る大捜査線』ファンのめだかです(笑)。
 『バトル・ロワイヤル2』はご覧になってはいないだろう・・・と思っていたのですが、「トホホ」ということは(笑)。前作もかっておいでではないと思っていたので改めて日誌を拝読しました。

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます。

(めだかさん)
 『学校4』と同時掲載だったので見落としていたようですね^^;

ヤマ(管理人)
 恐れ入ります。時々やってますね、僕、手前勝手な二本立て(笑)。でも、前作はけっこう支持してたでしょ。

(めだかさん)
 うん、そうですね。でも作品をというよりも監督の支持のような気も(笑)。

ヤマ(管理人)
 ズキ!(笑)、言われてみれば、確かにそうだ。作品けなして監督ほめてる(笑)。

(めだかさん)
 私はあれはキタノ教師が良かったです。で、『バトル・ロワイヤル2』のトホホなところをお訊きしたいところですが、前作の監督を語っておいでの文章を読むに今回はそういう気力も起こらなかもしれないですね(笑)。

ヤマ(管理人)
 前作の日誌でも綴っていたような「種々のエピソードや台詞といったものが紋切型で妙に薄っぺらくなっていた」ことや「事欠かない不自然さ」のみが残って取って付けた感じで、とほほでしたが、一番の失敗は、破天荒なフィクションに対して中途半端なリアルを持ち込み、いかんともしがたい作り手の安直さを露呈してしまったことです。
 両者を安直に同じ俎上に乗せることで、双方ともに向ける眼差しにおける真摯さが失われてしまったように感じました。テロ・ゲリラ・紛争地域をこういう形で持ち込み、アメリカを「あの国」呼ばわりするヴォルデモート扱いにも、やっぱトホホなセンスを感じたのでした(笑)。

(めだかさん)
 これ、ウケてしまいました(笑)。うわぁ、思いつきませんでしたよ。もしかして、本当にパロってたんだったりして(笑)。

ヤマ(管理人)
 あの作り手たちにその意図があったら、少なくとも、めだかさんが気づきませんでした~なんて慎ましやかな出し方をするもんですか(笑)。
 それはともかく、『ボウリング・フォ・コロンバイン』であれ『マニファクチャリング・コンセント』であれ、作り手の真摯さや主張自体が誤解されて伝わる余地は、極めて低いんです。作り手に対する、好感や嫌悪感というのは別ですけど、少なくとも主張を誤解する人はいませんよね。

(Tiさん)
 ヤマさんもお書きのように、日本にいてもメディアの洗脳とかいうのは、全く他人事じゃないですし。で、その最初のステップとして試されてるのが、この映画を観客としてどう受け止めるかってことなんだと思って、なんか観てて居心地悪くて仕方なかったです(笑)。

ヤマ(管理人)
 これなんですよ。ここがカナディアン・テイストの侮れないとこなんです(笑)。こういうとこに気づく人たちに、作り手は、より奥深いメッセージを突き付けてくるんですよ。
 俺達の言うことを信用するのかい、俺達だってメディアだぞってね。つまり、メディアの、しかも一つのモノによって簡単に断定なんかしていいのかってことも併せて突き付けてくるんですよ。

(Tiさん)
 「知らない人に簡単に説得されちゃあいけないよ」って言いながら、説得力のある映像を見せてくるんですから、イジワルですよねえ(笑)。

ヤマ(管理人)
 覚醒を促すってとこで、まさに観る側にアタック掛けてきてるんですもんね。

(Tiさん)
 でも、僕が観た後何日も消化不良で苦しんだのは、無駄ではなかったってことなんですね。よかったー(笑)。

ヤマ(管理人)
 それどころか、作品にとっては、最も嬉しい観客なんじゃないでしょうかね。描かれていない「現実」に対する可能性と想像力というものに思いを常に馳せつつ、受け取るべきじゃないのかっていう気づきの示唆とでも言うべきものに値打ちのある作品でしたからね。

(めだかさん)
 突っ込まれそうなこういうことを狙ってやっているのか半信半疑だったのですが、ヤマ様の日誌のカナダ映画という行で説得されちゃいました。

(Tiさん)
 あ、めだかさん、中野の『マニファクチャリング・コンセント』上映会はこちらですよー。http://www.nomadic.jp/chomsky/

ヤマ(管理人)
 本当のところは、僕もよく判らないんですけど、僕は『マニファクチャリング・コンセント』を想起したところへ加えて、後でチラシを見るとカナダ映画となってたもんで、グイッと一直線(笑)。本当は、この日誌にも10年前の日誌に綴ったことと同じ事を添えておくべきだったのかもしれませんが、直リンクで繋いであるし、まぁ自分にとっては、再掲する意味ありませんし、ね。

(映画館主・Fさん)
 ヤマさん、こんばんわ~。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、Fさん。

(映画館主・Fさん)
 夏休み中です(笑)。もっともサイトの休みですが(笑)。
 最近どうもどの映画を見ても確固たる「これだ」って印象が自分の中で結べなくなっているんですよねぇ。実はいろんなトコで言ってるんですが、僕は老眼でして(笑)。最近どんどん目が見えなくなってるんですよ。

ヤマ(管理人)
 これってネットのやりすぎなんじゃないですか?(笑)
 僕なんか顕著に出てきてますね~(やれやれ)。そのせいなのかどうかってとこありますが、最近ちょっとヤバいなって思ってるのが、映画観てると、やたらと睡魔に見舞われるようになってきたんですよね。作品がゆるいって感じじゃないのに、こちら側のテンションが持続しないんですよ。昔だったら、もっともっと楽しめてるだろうな~って損した感じを観終えたのち抱いて、何か精神衛生上よくないです(苦笑)。少し観る量を落とさないと、コスト・パフォーマンス悪いかな~とも(笑)。
 ある種の衰え、確実に感じてきていますねぇ。いくら好きでも、もう一日に何人もこなせないよぉ~って(笑)。

(映画館主・Fさん)
 で、この映画の見えなさって、この老眼みたいな見えなさで。キッパリハッキリ見えてるみたいなヤマさんは、どうなんだろう・・・とちょっと聞いてみたくなったんですが。

ヤマ(管理人)
 そうですねぇ。でもまぁ、テンションの持続力落ちてても、見えてるものが昔とそれほども違わないって感じもまたあるんですよね。それって、長年培ってきたコツのようなものかもしれない(笑)。ここんとこ押さえてこう攻めれば、とりあえずOKだろうってな。でも、それって相手も喜ばないだろうし、自分も今いちですよね(笑)。なんか本末転倒みたいで、ね。楽しむっていうのは、元来、結果よりもプロセスですから。
 で、僕は、昔も今もあんまり結果のほうにはこだわってないんですよ。自分に見えたものの当否正誤とかいうのも。
 今回この掲示板で『ボウリング・フォー・コロンバイン』がらみで、カナダのドキュメンタリーがどうとか言ってますけど、岩波新書の『メディア・リテラシー』って本なんかを読んだりはしてますが、斯界にそんなに明るいわけではありません。『マニファクチャリング・コンセント』とビビビっと自分の中で繋がってきたってだけのもんです。
 でも、きっとこうなんじゃないかって思いは、明確に湧いてきたんですよ。ただ、その当否正誤の程は知らない!(笑) 僕がキッパリハッキリ見えているように感じられるとするなら、そのキッパリハッキリの対象が映画作品そのものではなく、映画を観て自分の中に湧いてきたものって意識だから、キッパリハッキリなんでしょうね。

(めだかさん)
 へストンの姿と置いていく写真はかなりわざとらしく見える演出でしたね。あれでかなり頭が冷えたものです。

ヤマ(管理人)
 これも面白いとこで、あれで頭が冷える人とムカッと来る人とがいるでしょうね。ヤな奴だなーって(笑)。ま、ヤな奴と言えば、まず自分の協会員証見せるとこがヤらしいんですけどね。

(めだかさん)
 終盤ではありましたけど、あそこで妙に編集がシツコイというか、感傷的になるじゃないですか。それまではアレだけ勢いのある見事な切り貼りをしてるのにね。それで、裏が有り気で「あれ?」っとなるんですよ。

ヤマ(管理人)
 そうですね。一応、パーソナルな問題意識の決着に向かうんだって、予め説明されてはいましたけどね。それでも、「あれ?」って感じでしたね。なんか意味ありげでね~(笑)。

(めだかさん)
 映画にのめり込んでいてもあそこで引く人は多いんじゃないかしら。これはちょっと距離を(ムーアから)置いて観た方がいいかも、って(笑)。私はへストンが可哀想になりましたけど(笑)。

ヤマ(管理人)
 これは、例の写真の件よりも、逃げゆくかのように映し出された後ろ姿のほうでしょうね。
 でも、ああいうふうに自分で出向いていく自己検分主義っていうのは、やっぱ肝要の部分ですし、あれによって、全米ライフル協会はムーアでさえも会員として受け入れる鷹揚さを持っていることが示されますよね。少なくともメンバーシップについては偏狭ではない組織ですよね、あれが本当なら。

(Tiさん)
 ヘストンの吊るし上げは、ムーア自身にその気がなくても「こいつが全ての元凶なんだ。こいつはいくら叩いてもいいんだ。」っていう心理を呼び起こしちゃってると思いますし、それってマリリン・マンソンを攻撃してる人たちと同じになっちゃう気がします。
 その辺の危うさを、この人はホントに認識してるのかなっていうのが、僕はどうも不安だったんですよね…。

ヤマ(管理人)
 僕は、きっと作り手は認識しているんだろうと思います。ただ、その認識には、それをも厭わない覚悟のようなものを含めてってとこもありますけど。
 つまり、全米ライフル協会を否とし、マンソンを支持するという主張自体について誤解されなければ、情報メディアというものそれ自体が元来そういうものなんだと訴えているわけですから、自分たちだけは別物だという偽装を施すほうがタチが悪いとしたもんです。むしろ確信的に挑発してもいるわけです。あんな写真なんか置いたりしてね。
 敗北者のような後ろ姿を見せて「逃げゆく」ような印象を敢えて与える形でヘストンを映し出すわけでしょ。
 カナディアン・テイストのドキュメンタリー作品の魅力は、僕的には、嘘か真実かっていうところでの「真・善の偽装」を排除しているどころか、これってマンマ信用しちゃっていいのかなって気づきを促しつつ主張としての強烈さと説得力を備えているという点です。

(Tiさん)
 自分たちが恐れるメディアの力を最大限に利用して主張を展開し、たとえそのことで嘘つき・詐欺師と呼ばれることになっても、それでメディアの怖さが伝えられるのならむしろ本望…ってとこでしょうか。うーん、カッコいい(笑)。
 僕も「これ、どうか全部確信犯であって欲しいなあ。もしそうじゃなかったら、危ないなー。」と思ってたので、ヤマさんのご意見伺ってかなり安心しました。

ヤマ(管理人)
 期せずして両作ともがカナダ映画であったために、僕には、カナダのメディア・リテラシー教育というものの存在が強烈に意識されてきたわけですよ。作り手の個性だけのとこを越えたバックボーンとしての教育の成果のようなものを感じました。
 『マニファクチャリング・コンセント』を観たときは、カナダの教育事情のことなど全く知らなかったのですが、後にそれを知ったときに、なぜ『マニファクチャリング~』のような作品が出てきたのかが解ったような気がしたんですよね。
 時間はかかるんですけど、教育の力って侮れないですよ。メディアの力に唯一対抗できるのは、これしかないような気がするんですけど、どっちもが貧相で「操作と迎合」しか志向してない国は先行き暗そうですよね(笑)。
 大事なのはそこであって、嘘か本当かというのは、主張する側ではなくて受け取る側が判断することだぞって留保してあるとこですよね。でも、受け手側がそういう表現スタイルに馴染んでないんですよ。すぐに主張している側に答を求めちゃう。
 それって、まるで女たらしに手玉に取られている純情娘が「貴男は私を本当に愛してくれてるの?」って訊ねている昔の映画の一場面のようなもんで、訊くまでもなく女たらしは「もちろん愛してるに決まっているじゃないか」って言うわけですよ(笑)。情の交換として、それでつかの間の安心感を得られるにしても、現実認識の有り様としては、とんでもなく危ういですよね、それって(笑)。
 ま、いずれ痛い目にあって目覚めるか、白馬の王子に救われるかのどっちかって展開がお定まりとしたもんではありますが(笑)。

(Tiさん)
 ある人が仰ってましたけど、やっぱりこれは万年野党的な立場で地道にやってった方がいいような気もするんですよね。いきなり世界中の純情娘(笑)に「目覚めろ!」っていうのは、副作用が大きすぎるんじゃないかと…。

ヤマ(管理人)
 あ、そうですか?(笑) 意外とマッチョなんだ!(笑) あるいは、もちろん愛してるに決まってるじゃないかって言ってる側とか?(笑)

(Tiさん)
 いえ、ちゃんと目覚めてくれるなら、もちろんそれに越したことないですよ(笑)。

ヤマ(管理人)
 差別発言やなぁ~(笑)。好青年説に、危機訪れますよ(笑)。

(Tiさん)
 でも、「お嬢さん、その男はやめておきなさい。男はみんな野獣なんだよ。」「まあ、私に心からの忠告をしてくださるなんて、なんて素敵なヒゲのオジサマ…。」「い、いや、だからそうじゃなくって…。」「あぁ!もう私を好きになさってください!」…ってなっちゃったら大変じゃないですか(笑)。

ヤマ(管理人)
 これ!これ! このパターン!(笑) 男が「男はみんな野獣なんだよ」って言うのは、矛盾じゃなければ、凄く意味複雑ですよね(笑)。でも、そうなっちゃ大変って、それじゃあ、ちっとも目覚めてないってことじゃありません?(笑) 単にオトコ、変えたってだけで(笑)。

(Tiさん)
 ですから、その中和剤として、僕はマイケル・ムーアの次回作では、ブッシュなんかよりもこの『コロンバイン』ブームに自らツッコミを入れてもらいたいんですよね(笑)。

ヤマ(管理人)
 あ、これいいですねー、うん、いい企画だ!でも、商業ベースでうまく成功し始めたものは、かなり困難でしょうね。
 要は、観る側がそこに気づいたなら、自分自身で検証してご覧よってことです。いろんな形で「観た後どうすればよいか」っていう問題提起を投げかけてくるわけです。で、僕が感じたのは、ムーアの第一義はアメリカ銃社会の告発だったかもしれないけど、製作スタッフたちの大前提は、メディアへの覚醒を促すメディアってことだったのではないかってことなんです。

(Tiさん)
 あー、そう考えるとすごくスッキリするような気がします。ヤマさんの日誌の最後の部分も、飲み込めました。

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます。僕はてっきりアメリカ映画だと思ってましたから、映画観終えてからチラシ見て、カナダ映画と知ったとき、おぉおぉ~って感じでした(笑)。そーか、そーだったのか~って。なるほど、なるほどって。(笑)

(めだかさん)
 よくわからないのはロッキード社の周辺取材部分なのですけれど。事件そのものについてはメディアを態度を出してましたけれど、あの取材はヤマ様は目的をどう思われますか?

ヤマ(管理人)
 僕は、自己検分主義っていうものの一端だと思っていますね。

(めだかさん)
 銃による事件の原因をロッキード社の工場があるということから検分していくのかと思っていたら、結局それは土地環境の説明だけでそれきりだったので、6歳の少年の事件がどこに結び付くのか分からなかったんです。
 自己検分主義ですか。なるほど~。とりあえずは事件に踊ったマスコミに対するムーア自身の検分の結果を並べて、考察は観る者に委ねるというところなのでしょうか。

ヤマ(管理人)
 委ねてませんよ。挑発してます(笑)。思いっきり主張してますからね。んで、きみたちも自分で検証してみろよって挑発してるんですよ。コロンバイン事件に対してではなく、『ボウリング・フォー・コロンバイン』に対してって、ね。で、あれ見ると、あんまりアポなしだとは思えないですよね。

(めだかさん)
 ですよね。むしろ、アポなし取材の方が少ないような気がしたんですが。

ヤマ(管理人)
 そうそう。まぁ食事の席に乗り込んだのは、アポなしでしょうが、なんでもかんでもアポなしではない、むしろヘストンへのインタビューにしたって、きちんと申し込んでますよね。だから、アポなし突撃取材を売りにしてるわけでは決してありませんよね。
 言いたいのは、自己検分主義だったろうってことです。知りたければ、訊きたければ、直接当たれよってこと。ロッキードであれ、Kマートであれ、ヘストンであれ。日本の感覚では、ちょっと驚くほど、みんなオープンですよね。基本的にアカウンタビリティへの自覚と自負があるんでしょうね。

(めだかさん)
 日本の責任のたらい回しとは違うでしょうか? そこまでは思えなくて、能天気な自信と強気に見える部分もあるんですが(笑)。

ヤマ(管理人)
 確かに(笑)。

(めだかさん)
 それもムーアの編集技かもしれないですね。

ヤマ(管理人)
 でも、結果として関わりがきちんと生じれば、オープンであることの動機がいずれであったにしても、OKなんですけどね。

(めだかさん)
 この映画の後で原作の翻訳本も一度読みましたが、この自己検分主義を頭において読むと別の面白い読み方ができそうです。この視点からもう一度読み直してみます(^^)

ヤマ(管理人)
 あら、また嬉しいお言葉を(恐縮)。
 んで、そうすれば、「どーせ」なんて高を括っていることなんかよりも遙かに現実っていうものはダイナミックだし、動くものだってことなんじゃないですかね。とにかく自分の目と耳で検分してみようって当たってれば、Kマートの場合に、思い掛けなく瓢箪から駒が飛び出したりしてきたんでしょう。
 んで、そういう奴っちゃないでってな感じでしたら、また教えて下さいな。

(Kaoriさん)
 ヤマさん こんにちは

ヤマ(管理人)
 ようこそ、Kaoriさん。

(Kaoriさん)
 「ボーリングフォーコロンバイン」ですが、確かにあの中ではちゃんとアポとってたので、私も「どこが体当たり取材なの?」と思っていたのですが、ちょっと前に見たカナダの新人監督のドキュメンタリー映画で、ルームメイトが失業したことを描いている映画なのですが、彼が面接に行くとある企業がアフリカに工場を作って、現地の人を搾取してるだか、自然破壊してるだか、

ヤマ(管理人)
 うーん、いかにもカナダ趣味だな~(笑)。僕のなかでは、カナダ映画って劇映画はヘンに壊れてて、不可思議な作品が多く、ドキュメンタリーは、昔の左派とかリベラル派とかの流れを受けているような気がしてるんです。

(Kaoriさん)
 なんだかそーゆう問題があると知って、その会社の駐車場で役員を待って、唐突に「どう思ってますか?」っていきなり取材するシーンがあったんです。そしたら、その役員が「なんだね、君は唐突に!出来損ないのマイケル・ムーアか!」って怒り出すシーンがあって笑えました。他の映画を見たことないので、私は知らないけど、北米ではそーゆう人で有名ってことなのかしら? と思ったりして。

ヤマ(管理人)
 日本でもそーゆう人で有名になってるわけですから、北米でもそーゆう人で有名なのかもしれませんよね。でも、そーゆう人で有名であるからといって、実際にそーゆう人であるとの保証ができないのは、無名ながらも、僕がここで性愛王などという称号をいただいた一事を以てしても実に明らかなる処なんですけどね(笑)。


------半年ほどして-------


(グロリアさん)
 ヤマさん、こんにちわ。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、グロリアさん。

(グロリアさん)
 「ボウリング・フォー・コロンバイン」観ました。

ヤマ(管理人)
 おおー、ご覧になりましたか。

(グロリアさん)
 もっと過激で実験的なドキュメンタリーでは?という先入観があったんですが、ヤマさんも書いてらっしゃるように真摯な作品だと思いました。

ヤマ(管理人)
 そうですよね。非常に個性的で主張に満ちていましたが、過激とか実験的とかいうのとは、ちょっと違う感じですよね。

(グロリアさん)
 それにしても公開にあたってチャールトン・ヘストンから横槍が入らなかったのかなぁ~なんてチラッと思いました。

ヤマ(管理人)
 マネージャー(いるのかどうか知らないけど)的には、横やりを入れるとそれも格好の材料にされちゃう気がして、そうはできなかったろうと思いますよ。ヘストン御本人については、その余りにものの脇の甘さがある種の善良さと錯覚させるような同情心を引き出す形で捉えられてましたから、あまりダメージもないんじゃないでしょうかね。哀れっぽいだけで(笑)。

(グロリアさん)
 あ!やっぱり、そう感じてよかったんですね!(ホッ・・)
 ライフル協会の集会の時と違って、自宅ではロングで年老いてそろそろ歩く姿をやけにじっくり撮ったりしてましたが、それも表現上+横やり防止とダブルの計算だったんでしょうか・・・

ヤマ(管理人)
 作り手の真意はもちろん分かりませんが、あの哀れっぽく撮られていたところには、観客の同情心をひく効果の面と観客を挑発する効果の面と両方あって作り手としては、やや持て余すところがあったのかもしれないと思いますね。
 僕は観た当時は、横やり防止どころかヘストン側を挑発しているように感じましたね。そういう横やりが入れば、直ちにそれが宣伝効果になるのは二、三年前の我が国での『バトル・ロワイヤル』同様で、作り手としては、むしろ望むところでしょうから、逆にヘストン側はその挑発に乗るわけにはいかない、と。そんなふうに観ていたように思います。
 今は、もうひとつの観方として、観客のヘストンへの同情や自分たちへの反発を招くかもしれないが、実際の姿だったのだから、隠蔽するのもシャクだとか、とにもかくにも素のヘストンを捉えた映像の宣伝効果は無視しがたいといった意識が働いていたのではないかとも考えていますね。

(グロリアさん)
 ですよね~、彼が取材に応じてなかったら映画の仕上がりも、ずいぶん違うものになっていたでしょうから。

ヤマ(管理人)
 どれも当てにはならない四方山話ですが(笑)。

(グロリアさん)
 へストンの件で言えば、もうちょっとで彼の人種的偏見も暴かれそうで、観てる側もスリリングでした。

ヤマ(管理人)
 そう言えば、そんなとこもあったような気が。

(グロリアさん)
 さすがにそこまで話をひろげなかったのは当然でしたけど・・・へストンも一瞬冷や冷やしてたのではないでしょうか。

ヤマ(管理人)
 いやぁ、そんな自覚や自意識は働いてないと思いますよ(笑)。
 でも、ヘストンはともかく、あの映画を観て関心を持ち、あのあと読んだり調べたりし始めた人って少なからずいるのではないかという気がします。映画としての力、ここに極まれりって感じですね。
 ところで、この作品は先般、朝日新聞高知総局と共同で実施した「高知のオフシアターベストテン」でも、外国映画の部で断トツ堂々一位に選出されたんですよ。

(グロリアさん)
 納得です。ドキュメンタリー作品としては稀な求心力を感じました。メッセージ性と娯楽性を兼ね備えた点も秀逸ですよね。ヤマさんも日誌に書いてらっしゃったけど、Kマートの一件はドキュメンタリーならではの展開で監督も計算外だったんでしょうね。マイケル・ムーア、今後も注目したいです。

ヤマ(管理人)
 グロリアさんが「大上段に構えず、誰にでも理解できる素朴な疑問から核心に迫っていく」とお書きのところ、とっても大事なことですよね。こういう社会性に富んだメッセージを広く伝えようとする点では、特に。

(グロリアさん)
 さっそく読んでくださってありがとうございます。

ヤマ(管理人)
 えてして硬くロジカルにいかめしくしてしまいがちなだけに、観るも鮮やか、思わず快哉をあげたくなるような作品でした。「物静かで礼儀正しいが、粘り強い語り口が一種の安心感を与えているように思う。」とお書きのところも同感で、大いにポイントというか、巧みでしたね。
 しかも意味深長にレトリックとしてのスタイルという形で表出していたので、観てインパクトを受けた者が観ることで完結させてしまいにくい余韻を与えているところが更に秀逸でした。

(グロリアさん)
 「意味深長にレトリックとしてのスタイルという形で表出」うう・・・わたしには難しい・・・レトリックとしてのスタイルとは具体的にいうと? ヤマ先生、レクチャーしてくださ~い(>_<)

ヤマ(管理人)
 レクチャーって、まぁ~「先生」呼ばわりだけは御容赦のほどを(苦笑)。

(グロリアさん)
 ふふ、すみません(^_^; でもヤマさんの映画の観方、感想の表現方法はとても勉強になるので、わたしは冗談抜きで「先生」的存在だと思ってるんですよ!

ヤマ(管理人)
 いやはや恐れ入ります。確かに少々お先に生まれてはいますが、「・・と呼ばれるバカはなし」とも言いますし、ね(笑)。まぁ「的存在」なら、呼称はなしということで(笑)。ともかく、先の書き込みは言葉足らずでしたね、ごめんなさい(詫)。

(グロリアさん)
 とんでもないです。わたしはまだまだ単純な観賞しかできないので、ヤマさんの多面的かつ深く掘り下げた視点はとても勉強になります。

ヤマ(管理人)
 具体的に言いますと(笑)、修辞法というか、技巧としての文体ということなんですが、つまりはグロリアさんがお感じになった「一種の安心感を与える」効果を語り口として意識したスタイルだったように思うんですよ。
 澄まして高説を垂れるのではなく、それこそ銃社会の「恐怖」を煽るのでなく(笑)、観る側の目線で分かりやすく惹き付けつつ、肩の凝らない真摯さでユーモアを交えながら、ねばり強く、などということが無意識・無防備・無計算で行えるとは思えませんよね~。
 ものすごく意識的に、即ち、ある意味で技巧的に臨んだものだろうというわけです。

(グロリアさん)
 なるほど・・・もし扱うテーマが違えば、ムーア監督の画面への現れ方、観客に与える人物像も違っていたかもしれませんね。ひょっとしたらあの服装も計算? リトルトンの街に溶け込むような、アメリカに星の数ほどいる白人労働者層というルックスでしたもん・・・

ヤマ(管理人)
 そして、「意味深長に」というのは、そういうレトリック的なものをも意識させることでメディア・リテラシーみたいなところにも思いが及び得るような意図が、作り手の技巧としての文体の有り様に確信的に潜んでいたように感じられたということです。

(グロリアさん)
 う~ん、深いなぁ・・・
 それをこういう言葉で表現できるヤマさん、さすがです。

ヤマ(管理人)
 でも、そのなかで起こったKマートの件は、さすがに彼らも計算外だったろうとグロリアさん同様に僕も感じました。
 だからこそ、あのときだけは、僕が自分の日誌に「表現や製作に閉じ篭もっているわけではない活動家の充足感が窺える」と綴ったように、表現者としてのマイケル・ムーアの顔ではなく、活動家としての喜びの笑顔が、他では見られない無防備さで表れているような気がして、ドキュメンタリーの面白さの醍醐味を感じたのでした。

(グロリアさん)
 そうでしたね!あの一連の流れは予定調和じゃないだけに、観ている方も純粋に共感できました。
 それにしてもこういう風に観た後で反芻しながら語り合えるのはうれしいです。ありがとうございました♪ とってもよくわかりました。

ヤマ(管理人)
 ちょっとクドクド書きすぎたかなぁと思ったりもしましたが、うまく伝わったようでよかったです(喜)。

(グロリアさん)
 同じ映画を観た方とあらためて語り合い、疑問点を教えてもらったりできるのってうれしいですねぇ・・

ヤマ(管理人)
 ホントにそうですね。観方そのものへの共通点の有無に関わらず、こういう意見交換が出来るのは、刺激的ですし、面白いですよね。

(junkさん)
 ネタに反応して出てきました。

ヤマ(管理人)
 ようこそ、junkさん。

(junkさん)
 最近仕事の外出が多いのがストレスで休日は引きこもり気味のjunkです(汗)。

ヤマ(管理人)
 ちょうど反対ですね。僕は、外に出る機会が全くなくて(とほほ)。

(junkさん)
 で、ボウリング・フォー・コロンバインの感想。おおむね皆さんの意見に共感ですが、私はKマートの1件とヘストンのインタビューは、逆に場合によっては多少の押しつけがましさというか、説教っぽさを感じとる人もいるんじゃないかなーと思っちゃいましたね・・・

ヤマ(管理人)
 それはそうかもしれませんね。特にヘストンのほうについては、僕も上で「反発を招くかもしれない」と書きましたが、どちらの件も、高説を垂れるのではなく、フィールドワークに徹しているところが立派です。

(junkさん)
 「事実を知った後、何をするかが重要」というマイケル・ムーアのジャーナリスト魂、は(ピーター・ジャクソンそっくりですよね・・・)ホンモノだとは思うんですけど、

ヤマ(管理人)
 外見としての体型のみならず、『コリン・マッケンジー』なんていう食わせ物を撮ってますし(笑)。

(junkさん)
 思い入れが強すぎたのか、演出が多少ベタに流れた気がしたのは気のせいでしょうか? それも狙いかな?

ヤマ(管理人)
 ベタに流れたような気がしましたか。僕は、特にそんなふうにも思いませんでしたねぇ。ベタというんじゃないですが、分かりやすさってことでは、ものすごく意識し、狙っていたようには思いますね。

(junkさん)
 その一方で、自サイトのレビューにも書いたのですが、とにかく圧倒的なリアルを感じたのは、「サウス・パーク」のマット・ストーンの言葉。

ヤマ(管理人)
 拝借しているテクストの追記のとこにお書きですね。彼は、あそこの出身だったんですよね、確か。

(junkさん)
 「コロンバインはひどくウソっぽい学校で、リトルトンはうんざりするぐらい平和で変化のない町だ」という中規模地方都市の孤独ってのは、自分の高校時代にイヤというほど味わってたもので(汗)。

ヤマ(管理人)
 孤独っていうか、刺激に乏しい退屈さっていうのは確かにありますね。ん? でも、中規模っていうと、高知よりは都会っぽいな(苦笑)。junkさんは、それで東京に出て行かれたんですか?

(junkさん)
 リトルトンほどではありませんが、私は人口40万弱くらいのいかにもな地方都市(高知よりは小さいかな?)育ち。

ヤマ(管理人)
 いや、少し大きいですね、高知は人口35万くらいですから、ほんの少しですが(笑)。

(junkさん)
 そこは刺激のなさという以上に「文化的刺激がないことを当たり前だと思っている」地域社会で、そのことへの疑問が幼いころから強くありました。本を読んでたら驚かれるド下町でしたから、子供は勉強してたら特異な目で見られる、という・・・幼い頃勉強大好きだった私(ヤなガキ)には苦痛な日々でした。
 結局、閉じた社会では、一定の価値観しか認めてもらえない。それがホントは間違ってても。
 改めて考えてみると、東京に来たきっかけは、その街を出たかったという気持ちなのかもしれません。

ヤマ(管理人)
 なるほどね。

(junkさん)
 ・・・って、話がひどく拡がってしまったのですが、「ボウリング~」のマット・ストーンの言葉に、地方の学校という閉じた社会でそれと同じ状況が起きているのを改めて実感したのです。世界が閉じているため歪んだ価値観が育ってしまう、その危険性がさらりと伝えられていて印象深い言葉でした。

ヤマ(管理人)
 junkさんが反応されている部分は、とても大事な部分ですね。独善性や異分子を認めない排他性みたいなことにも繋がります。

(junkさん)
 アメリカ全土を語る前に、小さな都市のリアルをきっちり伝える姿勢があったからこそ、巨大な規模の告発ムービーでありながらも、丁寧で真摯な作りになってるように感じられました。

ヤマ(管理人)
 大きなテーマを扱いながらも、きっちりとフィールドワークに根ざしている丁寧さが説得力に繋がっていたんですよね~。

(junkさん)
 って考えると(ベタとか感傷的とか文句も言ってますが(笑))、「ボウリング~」は告発するテーマの大きさ以上に「ささやかだけど大切なこと」を伝えようとする真摯な映画でもあったのが素晴らしいな、と思うのです。

ヤマ(管理人)
 いろいろあるなかで、一番のメインテーマは「気づきへの促し」だったように僕も思ってます。ささやかだけど、大切なことですよね、気づきって。
by ヤマ(編集採録)



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