『十五才 学校Ⅳ』
『バトル・ロワイアル』
監督 山田 洋次
監督 深作 欣二


 少年法改正論議に端的に窺える昨今の関心の高さを反映するかのように、日本映画の第一線現役監督の二大巨頭とも言うべき、ほぼ同い年の二人が、あまり時を違えずして同じ中学3年生を描いて、いかにも対照的な作品を発表した。いかにも同時代性をもって旨とする映画にふさわしい現象だ。そして、それがそれぞれの築きあげてきた個性にいかにも即応していて、作品と監督に逆の組み合わせは絶対にあり得ないところに、それぞれの面目の躍如たるものがある。そのあまりにもの意外性のなさに意気軒昂を感じつつも、新鮮な発見は自分としてはなかった。

 演出の確かさや感情の細やかさにおいて、山田洋次はさすがの円熟を遺憾なく発揮していて見事だ。不登校の少年(金井勇太)が旅の途上で出会うさまざまな人たちとの善意の交流を通して、学校教育のなかでは得られなかった学びと生きる力を得ていくさまが情感豊かに描かれていて、出来過ぎなまでによく出来ている。この映画を観て、ある種の癒しを覚える人が少なからずいることを確信できるような作品だ。実際、僕も大いに心打たれた場面がいくつかあった。でも、感動して、そこに癒しを覚えるのは、おそらく総て大人だろうという気がする。それはそれで悪くはないが、少年を主人公にしていて少年世代の共感を得にくいように思われる作品というのは、大人の癒しのために子供が出汁にされているようで、少年たちに後ろめたい気にもさせられるし、下手したら、むしろ世代間断絶を助長しかねない情緒を育むかもしれない。

 一方の深作作品は、感情表現の確かさや細やかさにおいては山田洋次と比べるべくもないが、原作が持っているであろう強烈なアイロニーを叩きつけるようなパワーを損なわずに少なからずの観客に衝撃を与えるだけの力を持っている。原作に負うところが大きいとはいえ、やはり大したものだ。そして、自身より五十五才も若い少年少女を描いて活写と言えるだけの演出を果たしているエネルギーには驚かされる。学校自体は描かずとも学校教育への疑問と不満を表明している面もある山田作品の批判精神など足元に及ぶべくもない強烈で怒りの眼差しの篭もった大人たちへの反発があって、その精神の若々しさに圧倒される。子供たちを粗雑に扱い、とんでもないことをさせているのは、いつだって大人の側なのだ。しかし、そのなかで人としての魂を問われるのは、ほかならぬ個々の子供たちであって、大人のせいにしたって何の救いも解決も得られない。いかようにして生き延び、いかようにして死んでいくかは、彼らが自ら負うしかないことなのだ。

 それにしても、あからさまとも言えるような過激派へのシンパシーを今時になってもなお表明するのは相当な根性だ。ただ、脚本がこなれていなくて、極限状態に置かれたときの人間のさまざまな在り様を窺わせる種々のエピソードや台詞といったものが紋切型で妙に薄っぺらくなっていたようにも思ったし、娯楽作品のお約束ごととはいえ、この至近距離でなぜ当たらないの、とか、どうしてそんなに簡単に、とかいった不自然さには事欠かない。

 少なくとも言えそうなのは、一方を熱烈に支持する人は、他方を断固として嫌うだろうなということだ。そういう意味では、思い切りの悪い僕などは、どちらの作品も熱烈に支持する気にはなれなかった。けなされていると擁護したくなり、もてはやされていると文句をつけたくなるような始末の悪さがある。




推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2000sicinemaindex.html#anchor000510
by ヤマ

'00.12.19. 松竹ピカデリー1/'01. 1.28. 高知東映



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

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