『8人の女たち』(8 Femmes)
監督 フランソワーズ・オゾン


 観たあと、日誌を綴る気も起きなくて、インターネットでよく訪ねる掲示板に昨日観ました。ひっさびさにツマンネェ〜って感じで椅子のうえで伸びてました。なんで、あんなにつまんなかったんだろー。イザベル・ユペールの変身ぶりだけが、おぉ!鮮やかって感じで、座り直したの、そのときこっきり(苦笑)。話が進むに連れて、どんどん椅子のうえで伸びて行っちゃってました。『まぼろし』って、どんな代物だったんだろうって、却って気になりましたね。と書き込んだところ、思い掛けず、僕の“つまんねぇ〜との単純かつストレートな感想”が面白いとウケた。どうやら、映画なら何でもかみ砕き解釈するような印象が僕にはあるとのことで、この顛末は、やはり日誌として残しておきたい気になった。

 確かに僕は、映画を観てて、こんな感じで椅子のうえで伸びてしまうことが滅多にない。悪食と言われようが、節操がないと言われようが、映画なら何でも観たくなるクチだし、好感を持つにしても、反発するにしても、やはりそれなりにきちんと観ていることが多くて、睡魔に負けて意識が遠退くことはあっても、椅子のうえで「つまんねぇ〜と伸びてしまうこと」は、本当に滅多にない。ただ、観ながら日誌に綴っているような事々を考えているということも先ずはなくて、観終えた当座の感想は、いやぁ、よかったなーとか、凄かったなーとか、割と単純かつストレートなものであることが多い。だから、日誌に綴っているような事々は、映画を観終えてから後の反芻タイムに、なぜよかったのだろうとか、どうして凄かったんだろうとか、印象深く残っているシーンを回想したりすることから生まれるわけで、大概の場合、それはエンド・クレジットのロールを眺めながら始めていることが多い。そして、その日はキーボードに向かったりせずに、ぼんやりと漫然と反芻していることが多い。それがけっこう楽しい。時にはそれが会場で出会った友人との会話という形で行われることもある。そうして想起したり連想した事々のなかから、日誌に綴っておきたいと思うことをかなり部分的に抽出して、自分が後から読んで思い出すことができる備忘録的なものとして綴ることが多い。だから、ストーリーを追ったりすることがほとんどない。

 それで言えば、エンド・ロールのときにいつもの反芻タイムが全く始まらなかった作品だった。そうなったのは、いい加減、話が進展するに連れ、椅子に伸びていっていたのに、ラストでの一際の脱力にすっかり萎えてしまったからなのだろう。“最後に仕掛けられた、あっと驚く秘密の罠”というのがいかにも御粗末で、そこに至るまでの間、観客にとっては引きも切らず次々と出てきた、余りと言えば余りな、取って付けたような展開と秘密の数々が、ロマンティックどころかいささか趣味の悪さを感じさせる面妖さでうんざり気分だったのに、観客がようやく知った数々の秘密事は、問題の人物においては大半が既知のことであったわけで、観客が知ることになるまで引き伸ばされるようなことではない仕掛けだと思ったから、どっと力が抜け落ちたのだろう。言わば、死者に鞭打つ一撃だったわけだ。

 結局のところ、何もかもが仕掛けのための仕掛け、仕込みのための仕込みになっていて、集めた女優にあんなこともさせた、こんなこともさせたって感じで、作り手が面白がっているだけだったような気がする。ある意味、その飛躍加減が格別なだけ余計にシラけてしまったようなところがあるのだが、そういう作り手の遊びをもっともらしく装うために仕込んだ仕掛けが総て取って付けたようなものでしかなかったというのが、僕が伸びてしまった一番の理由だったのかもしれない。


推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2002/2002_12_30.html
by ヤマ

'03. 5. 8. 県民文化ホール・グリーン



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