自分自身への 審問』を読んで
辺見庸 著<毎日新聞社 単行本>


 硬質でクセのある文体ながら読み応えと気概のある文章を綴る著者が、十年ほど前に癌と脳出血のダブル(P186 あとがきに代えて「神意は真に存在するのか」)の病魔に見舞われた病床で綴った著作のタイトルに惹かれて、読んだ。

 そのあとがきに拙文がもしいささか遺書めくとしたら、これも運命への畏れで内心狼狽しているから(P189)としつつ、臆病の神降ろし、という。明日はわが身、そうする者を難じてはなるまい。が、教誨師らが死刑囚を神仏の道に帰依させたりすることはどう考えればよいのか。帰依してしまう死刑囚の心の内は察するに余りある。死刑の執行には反対せず、ただ神仏に帰依するようにし向ける者らには、しかし、そこはかとない罪のにおいが漂う(P189)と語ったうえで、神意は、いにしえから二十一世紀現在まで、戦争発動や死刑、大量虐殺、帝位継承の正当化などにしきりに利用されてきた。私はだから、誰より臆病だけれど、神意を語らない。もしも戦争にも死刑にも徹底的に反対する神意ならば、私はそれを信じるだろう。(著者の命への打撃の)寸止めは神意なり、と深く感謝もするであろう。(P189)と結んである著者は、死刑執行も戦争も、いわば制度的殺戮(P13 第一章「死、記憶、恥辱の彼方へ」)としており、病んだ身体をとおして世界を眺め…傷んだ脳や麻痺した手足の感覚から、戦争や死刑のリアリティ、それらによって死にゆく者たちの孤独や苦痛を感じてみようとしたり(P63~P64 第二章「狂態モノローグ」)するなかで、世界の現実存在は人間身体から離れて語ることはできない――というのが、倒れる以前からの持論でしたが、ますますその感を強くしました。というより、倒れる前は頭でわかったつもりだっただけで躰ではまるでわかっていませんでした(P64)との実感に基づいて結びの言葉を紡いだのだなと思った。

 第一章の早々にライブドアっていうんですか、あの騒ぎ(P15)と出てきて、先ごろ堀江貴文の小説拝金を読んだばかりだった奇遇が妙に面白かったが、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの資本主義には普遍的なものが一つしかない。それは市場だ。…すべての国家は市場が集中する場であり、その証券取引所であるに過ぎず、富と貧困を産みだす途方もない工場であるとの弁を引き、人類の貧困を産む作業に加担して骨の髄まで腐っていないような民主主義国家は存在しないのだ(P15~P16)との言葉を紹介しているくだりには、共感を覚えた。そして、ライブドアの騒ぎのとき、「お金でジャーナリズムの魂は買えない」みやいな反発もありましたが、失笑ものでした。魂が買えないとしたら、とっくの昔に売り渡され映るから[今さら買えないの]であって…市場は戦争も愛もセックスも臓器もジャーナリズムの魂とやらも、その気になりさえすれば市民運動だって合法的、民主的に売り買いする(P16)との弁に首肯した。

 第一章のなかに現れた小見出しの言葉で特に響いてきたのは、“人間であるがゆえの恥辱”(P16)と“<見る>という不遜”(P20)だった。後者は、変な話ですが、<見る>あるいは<視る>、<診る>、<視認する>、<目視する>、<監視する>、<観察する>、<視察する>という言葉と行為に、ぼくは病前から朧に怪しいもの、何だか不遜なもの、特権的なもの、優越的なものを感じていた(P19)との著者からの“一方的な<見る>の疑問”(P19)として記されていたが、その言葉が気になったのは、若かりし頃に友人からキミの本質は“見者”だねと言われ、ドキリとしたことがあるからかもしれない。

 前者は、ナチスの強制収容所についてプリーモ・レーヴィが語った言葉だそうだが、件のジル・ドゥルーズが援用して資本は何でもするし、それにはうち勝ちがたいけれども、しかし「人間であるがゆえの恥辱」というものがあるじゃないか、それにもっと気づいてもいいのじゃないか(P17)と言っていることを受けてかつてアジアの人々に到底癒しがたい恥辱を植えつけ、そうすることにより自らも深い恥辱の底に沈んだこの国はもはや、恥辱とは何かについて考える力さえ失いつつあるようです(P17)と述べていたのが印象深かった。そして、“この国の救いがたい卑しさ”(P22)とまで言い、“記憶障害はどちらか”との小見出しのもと中国の反日デモは官製のものだとか、中国側に都合のよい歴史教育の結果だといった解釈も、一部にそうした現象もあるにせよ、すべてをそのように断じるとしたら、偏方向的<見る>から導かれた皮相で危険な考えではないでしょうか。戦後六十年で歴史的な過誤はすべて時効になったがごとき言い草ほど無知かつ無恥で、聴いていて背汗を禁じえないものはない。鏡の向こうの他者たちのルサンチマンとその理由が見えなくなったとき、こちら側からの<見る>は偏頗で傲慢で危ないものになっていると考えてほぼ間違いないのではないでしょうか。(P23~P24)と述べていることに共感を覚えた。

 そして、躰を傷めた辺見庸がこの『審問』を著わした十年前よりも遥かに目立って、“今だけカネだけ自分だけ”の身勝手な“強者の論理”をふりかざすようになり、弱者が破れかぶれの埒外の非道に走ったり、さらなる弱者からの強奪を目論むような弱肉強食を摂理と見紛っているような時代を迎えているなか、この世界には、健常この上ない人間の形骸化とそれゆえの恥辱だってありはしないか――ということも考えてみたい(P29)との言葉は重みを増しているように思った。

 フランシスコ・デ・ゴヤの「すべてが妄」と題された銅版画を引きつつ、ゴヤが「妄」シリーズを制作したりマルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を著した時代よりも現在のほうがよほど「すべてが妄」ではないかとぼくには思える(P36)とし、金融市場で一日に取り引きされる資金すなわちモノをともなわないお金は、モノをともなう世界の貿易額の百数十倍だそうです。金融経済が異様に肥大して実体経済が衰微しつつあるのです。言い換えれば、きょうびは、いわば「虚」が各所で「実」を呑み込みつつあるようです。…オンライン・ネットワークで資金を移動させて、キーボード操作だけで瞬時に何億ドルも儲けたりするのが、いわゆる“勝ち組”の典型的スタイルであり、いまの人々の見果てぬ夢であるとしたら、それこそが「妄」であり、現在は見わたすかぎり無辺際の妄の景色が広がりつつあるのではないでしょうか(P37)との弁は、かねてより自分も思っていることではあったが、著者が身体性に根差した思弁を重ねてきた人物であるだけに、観念性に留まらない説得力があるように感じた。

 そして、爛熟した資本主義のシステムはそこに生きる者に人間的恥辱をそれとして感じさせないか、あるいはちょっと感じたふりをさせるだけの「疑似感覚細胞」をかぎりなく増殖させていくとぼくは見ています。これは“恥知らず細胞”と呼んでもいいかもしれません。この前、世界的に有数の企業のトップが、いま必要なのは誠実や勤勉ということではなく、眼に見える業務成果なのだ、という意味のことを何憚らず語っていました。…求められているのは人の一般的徳目ではなく経済効果のみだということは、先人たちの悲観的な予言どおりなのかもしれません。…こうなると、ゴヤの「すべてが妄」を鑑賞するにも、もっと今日的想像力が要るようです。先ほどは、エッチングの奥に、無宿者や狂者、羅刹の類、淫虐の主たちの貌を想像するみたいなことをお話ししましたが、そうではなく、いま想像すべき最たる妄とは、異形ならざる異形とでもいいましょうか、“勝ち組”を自認したりこれを称揚する者たちなのであり、彼らの一見賢しげな面立ちに憑りついている妄でしょう(P37~P38)との言葉に共感し、現存する底なしの哀しみを、ないかのように言いくるめ、「怒りも哀しみも感じてはならない」と絶えず耳許で囁きかけてくる不可視の、しかし、誰あろうぼくらが無意識にこしらえたシステム。紛れもなくこれこそ、今日という失意の時代の根源の恥辱でしょう(P39)との言葉が沁みてきた。

 このシステムが作り出したものとして、著者は“ロボトミー社会”(P45)という実に強烈な命名を施していることに恐れ入った。曰くロボトミーを施された者は、根拠もなく楽観的になり、およそどうでもいいようなことをペラペラと喋り、外部の出来事や他人の不幸には関心を示さず、過去へのこだわりをなくすだけでなく、理由もなく気分が爽やかだと思うようになる……という話を読んだことがあります。…テレビをつければ、ロボトミー術後症例そのもののような面々が、何がそんなに愉快なのか、笑いさんざめきながら、あるいは含み笑いしながら次から次へと登場するではないですか。テレビというのはぼくが倒れる前からロボトミー集団的ではあったのですが、その度を一段とくわえたようです。…そうでもなければ、これほどまでの痴愚が大っぴらに繰り広げられるものではありません。 驚嘆すべきは、ロボトミーに端を発した「頭脳改造」が二十一世紀現在ではついに記憶や想像の領域にも及んでいるらしいということです。…帝国主義による侵略の歴史のなかでもとりわけて特異かつ醜怪な事件を日本は実に数多く引き起こしていますが、しかし、それは根拠のない「外部の言い分」であるとして、日本自身には一般に痛苦な自覚も反省もないのが実情です。いや、事態はさらに大がかりな回り舞台のように、もしくは“カフカ的”に変化しつつあるようです。出来事の中身がそっくり入れ替えられたり、出来事そのものが消去されたり、新たなナショナル・メモリーが作られて、人々の脳裏に移植されたり……。なにぶんにも、日韓併合は韓国側の求めに応じてなされたと与党幹部まで言い放つようなご時世です。閔妃殺害事件に日本は無関係だとか、「乙巳保護条約」も韓国側からのたっての要請にもとづくものだとか……公然と語られる日もそう遠くないのかもしれません。他方、日本人拉致問題は新たなナショナル・メモリーとして最もふさわしい出来事である、と国家とメディアにより判じられたのか、大がかりな記憶移植がすでに本格化しているようです。前史がなぜかそっくり取り除かれた「日本人受難」の情報だけを、メディアが連日連夜大量に流すことにより、恐らく国家規模の記憶移植は可能となります。これにともない、まっとうな歴史意識が密かに破壊され、各人が内面のスクリーンに映しだす各様のイメージ映像もかつてなく規格化されているようにも見えます。(P46~P49) 十年前だからこそ発行できたのであって、今だと本書は刊行されないのではないかとさえ思った。


 狂想モノローグと題された第二章では、今やある種の社会的認知さえ得た感のある“ネトウヨ”なる者たちに顕著なビヘイビアに言及している部分が目を惹いた。HPでの掲示板談義僕は、日誌を綴り始めた二十年前からも、日誌のなかで政治について書いたりはしてましたが、時事的な政治問題や現政権批判みたいな生臭さはずっと避けていました。自分の映画日誌は意識的に時事的なところから離れてたんです。ですから、ちょっと迷いつつも、そうではない方向に踏み出した日誌は 記憶に残っていて、米英のイラク攻撃支持を日本政府が表明したことに否の意思表示をした『ダーク・ブルー』の日誌でした。と書いた塩田明彦監督のカナリア』の映画日誌に僕が自身に向ける言葉ならいざ知らず、他者に向けるためのみに使われる“自己責任”などという言葉が極めて当然のようにして、時に訳知り顔の卑しい小気味よささえ漂わせて人口に膾炙する時代と記したのは、本書刊行の半年前のことだ。

 そのこともあってか、米英軍などがアフガンやイラクで行使した超弩級の暴力に対し世界は死にもの狂いで抵抗する必要がありました。ここで闘わないのならいったいどこで闘うのだというくらい重大な決戦であるべきでした。しかし、日本ではさしたる反対行動もなく、逆に国会が有事法案を可決。ろくに抵抗せず、米国の暴力を後押しするだけの日本という国の片隅で、ぼくは日々、空回りし焦慮をつのらせていました。…ぼくは何かに心底怒ってました。勿論、米英軍のイラク侵略や日本政府の憲法破壊に憤ってました。体調を悪くするほど腹を立てていたのは、しかし、別のことだったような気がします。それは、一言でいえば、この国独特のどこか安手のシニシズムのような空気でした。あれはいったい何なのでしょう。含み笑い、冷笑、譏笑、嗤笑、憫笑……。くっくっくっ。ふっふっふっ……。この国では、人として当然憤るべきことに真っ向から本気で怒ると、恐らく誰が教えたわけでもなく戦前からつづいている独特のビヘイビアなのでしょうね、必ずどこからかそんな低い声調の笑いが聞こえてきます。何もしない自分を高踏的に見せたいのでしょうか。それとも、何も怒らない絶対多数の群れにいるという安心感からでしょうか、何の意味もない口からの放屁のような笑いなのでしょうか。ぼくはあの笑いが生理的に嫌いで、ときには淡い殺意する抱いたものです。…政治状況についてのべつ口角泡を飛ばし、紋切り型の正義ばかり主張するような輩をぼくは最も苦手としていました。わかりやすい正義と悪の模式のようなものを示して、他者を教導したり諭したり鼓舞したりするのを、仮にそれが大枠でまちがっていないにせよ、どうもどこかいかがわしいことのように感じてしまいますし。反動の政治でも革命の政治でも、政治であるかぎり信用できないのです。…安手のシニシズムといいましたが、僕の目にはあれも政治的に見えるのです。あの笑いは下卑た政治家の笑いと相呼応しているようです。(P72~P77)との一節には大いに共感を覚えた。

 そして、「基礎づけるものとしての根底」なき世界という言葉は、ハイデガーの意図するところとは別に、ぼくにとって衝撃的でした。二十一世紀現在こそがもっとそうではないかと思うからです。約六十年後のいま、社会主義という象徴的価値体系の崩壊とともに理想や夢の消失はさらに進み、価値観の底が抜けたどころか、人として生きる目的のない世界、恥を感じることのない世界がハイデガーの時代よりも全域で完成しつつあるようです。ハイデガーは「世界の夜の時代」とも表現しましたが、これはまさに現在のことかもしれません。神の不在をそれとして感じることができず、夜を昼と錯覚している時代、恥なき季節、徒労と失意の時代――それが現在なのでしょうか。…くっくっくっ。ふっふっふっ……。そう笑っている者は人間ですが、腹話術のように笑わせているのは人間ではなく、資本ではないかとぼくは思います。人間がいまほど資本の幻想に操られている時代はないし、資本の魔手から逃れる出口あるいはそのヒントは現在の視圏のどこにも見当たりません。…前世紀の後半にフーコーら先鋭な思想家、哲学者たちは「人間」という概念は時代遅れだとか「内面の時代」は終わったとかいいだしましたが、ひょっとしたら現在を予感していたのかもしれません。たしかに人類史上これほど内面の貧弱な時代はかつてなかったし、資本万能の時代もありませんでした。ハイデガーが言った「神性の輝き」を放っているのはいまやキャピタル(資本)と市場だけではないですか。…これが破局の源であり、世界規模の失意のわけなのです。 いっときメディアにさんざもちあげられた、いわゆる「勝ち組」のIT成金たちにしても、資本に意識を収奪されているという意味合いで人間的には「敗者」であり、資本にがんじがらめという点では、ひどく不自由な人種という見方も成り立ちます。…彼らは物質的には絶大な富を蓄積していますが、非物質的には意識を誰よりも多く搾取されているといえるでしょう。IT成金のなかには、この世のなかにお金で買えないものはないといい放った青年もいたようですが、たしかにこれは半面の真理でしょう。ただし、彼らには自分の精神のあらかたが資本に絡めとられているという、本質的貧しさの自覚がない。内面の貧寒とした風景は、しかし、いまの社会のうそ寒さと釣り合うようです。市場とは富だけでなく同時に途方もない貧困とこれにともなう悲劇を産みだす無慈悲な場であるという事実を深く内面化しないかぎり、お金まみれになるということの「人間であるがゆえの恥辱」に気づくこともないのでしょう。(P81~P83)との弁が心に響いてきた。


 比較的短かった第三章人の座標はどのように変わったかでは、消費社会への言及と小泉政権当時の自衛隊派遣問題に関する発言が目を惹いた。

 前者については、久方ぶりに復帰した社会は、清貧も精励も美徳ではなくなっただけでなく、いまや嘲られかねない。消費と投資がもてはやされ、射幸心をもつも煽るも罪悪視されなくなった。以前からそうだったと言えばそうだが、人が生きていく価値の座標が目下、劇的に変わりつつあるのは疑いない。…競馬にせよ株にせよ、一獲千金を狙うのはもはや恥でも罪でもなくなりつつある(P91~P92 風景の耐えられない軽さ)と記されたときから十年経過して、今や年末ジャンボ宝くじの当選額は10億円を謳い文句にする時代となっている。それなら2億円の当選を5倍に増やすほうが遥かに望ましいと思い、株式投資やケータイ所持に抗う僕などは、時代の流れに取り残されているということなのだろう。

 生産、労働、刻苦精励、終身雇用労組、年功序列といった価値が退潮し、消費資本主義ともギャンブル資本主義とも呼ばれる資本の全域制覇の時代を迎えた。…問題は、人が生きることの内奥の重みや光が果たしてここにあるのか、ということだ。他者の悲しみや苦悩はそれとして感じられているのだろうか。風景は満目、プラスチックのように軽く、嘘っぽくなった(P92)という十年前よりも事態は進んでいて、この4月にTBSの『サンデーモーニング』で寺島実郎が安倍政権は株価を上げるため、年金積立金の25%で日本の株を購入 25%は外国の株式を買っている。 『年金の積立金の半分』を株式に投資している。非常に危ないことだ。と言われたりしていることに触れていたように、国民の老後生活を支える重要な金融資産を、年金などあてにもしない生活水準にあると思しき株式投資家たちのために注ぎ込み、つい先ごろ7~8兆円の大きな損失を計上したなどと報じられたりするようなことが、実に軽々と行われているのが今日の日本の風景なのだ。

 後者については、故岸信介首相はかつて「自衛隊が日本の領域外に出て行動することは一切許せません」と公言している。「海外派兵はいたしません」とも言明していた。いま、事態はどう変わったか。自衛隊は大挙してイラクに駐留し、憲法九条は、内閣総理大臣を最高指揮者とする「自衛軍」を保持する、と改定されようとしている。さらに、「国際社会の平和と安全を確保するために」と称し、海外での武力行使も可能にするべく改憲作業が進んでいる。ガラガラと何かが崩れ、政治家の三百代言を指弾する論調は萎むばかりだ(P106 楽園にはもう帰れない)と記された事態は、改憲手続きさえすっ飛ばした解釈変更によって法制化されるに至っている。この十年や恐るべしと慄然とせずにはいられない。


 この問題については、続く第四章視えない風景のなかへでも続けられ、“戦後六十年と新たな戦前”との見出しの元に二〇〇三年十二月、閣議は自衛隊のイラク派遣を決定した。これだけでも驚天動地だが、小泉首相は派遣の根拠として憲法前文を挙げ「われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって……」と読み上げてみせたのだから、もはや絶句するほかなかった。時ならぬ首相の憲法朗読は前文中で最も重要な前段の文章二十行四百数十字を、恐らくは故意にであろう、そっくり省略していた。それは、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し……」という、第九条と響きあうくだりである。 日米安保条約を改定した故岸信介首相でさえ「自衛隊が日本の領域外に出て行動することは一切許せません」と明言しているのに、イラク派遣を積極推進し、その論拠をあろうことか平和憲法前文に求めていく。「国家としての意思」「日本国民の精神」が問われているとまで首相が言いつのる。哀しむと哀しまざるとにかかわらず、これが戦後六十年の日本の自画像である。戦後の卒業どころか、終戦から時を経るごとに「新たな戦前」が近づいている趣さえある。安易な戦後の解消を目論めば目論むほど、逆に戦後の呪縛に深くはまっていくというパラドクスがここにある。 私たちは果たしてどこに行こうとしてるのだろう(P121~P122)と記されていた。そして、渡辺一夫の『敗戦日記』や丸山眞男の『自己内対話』を引き、「知識人の弱さ、あるいは卑劣さは致命的」「知識人の転向は、新聞記者、ジャーナリズムの転向からはじまる。テーマは改憲問題」といった言葉を紹介していたことが印象深かった。

 第四章には、このほか“サリン現場十年目の回顧”との副題を添えた見出し“「鬼畜」対「良民」だったのか”の元にその朝、私はたまたま地下鉄日比谷線の神谷町駅構内にいた。救急隊や警察がくるだいぶ前のこと。すでに十数人が倒れており、見る間に歩行中の通勤者たちも次々にひっくり返った。外国人を地上に運び上げた私は肩口におびただしい吐瀉物を浴びた。だが、誓っていう。当初の現場にはマスコミが報じたような「パニック」などなかったのだ。不可思議な「秩序」のみが存在したのである。通勤者も、駅員も、遅れて駆けつけた記者らも、じつに生真面目だった。ただし、それぞれの職分のみに。…あの朝の生真面目さの隊列には、通勤者や記者らとともに、じつのところサリン製造者や撒布者らも象徴的に連なるのではないか。加害者たちは決して尋常ならざる「反逆者」だったのではなく、大方の通勤者、記者、警察官同様に、心優しき「服従者」にすぎなかったのではないか。あるいは、指示者に忠実な「被指示者」たちだっただけだ。そこには言葉の優れた意味で自由な「私」は一人としていなかったのである。 麻原を除くサリン事件の被告たち個々人に、私はいわゆる狂気など微塵も感じたことがない。法廷での挙措、発言に見るもの、それは凡庸な、あまりに凡庸な世界観と一本調子の生真面目さなのであった。その像は、うち倒れた被害者らを跨いで職場へと急いだ良民、すなわち通勤者の群れに重なる。とすれば、あの事件を「鬼畜」対「良民」のそれとみるのは錯視に等しい。(P125~P126)との文章があって、印象深かった。そして、人間社会が「進歩」を標榜して自らこしらえた風景の真贋を、聴き分け見分ける心の聴力と視力(想像力)をもはや危機的なまでに衰微させているという、なんとも無残なパラドクス(P130 遠音を聴き、撮る者たち)との一文に頷いた。


 本書のタイトルと同じ表題を掲げた終章たる第五章には煩悶に近い自問自答が連ねられていたが、カルトでも大宗教でも大企業でも基本は変わるところがない。危機を騙って財をなす(P153)と述べたうえで、私はロボトミー手術でも受けて、伊豆かどこかの陽当たりのいい別荘地あたりでニコニコ笑いながら余生を生きればよかったのだ。無農薬野菜を食い、コレステロールと塩分の摂りすぎに注意して、血圧コントロールを徹底し、ラブラドール・レトリバーを飼い、庭でゴーヤを育て、朝はヘンデル、夕にはバッハを聴き、有事法制が採択されようが、9・11が起きようが、バグダッドが爆撃されようが、クラスター爆弾が子供の頭を西瓜のようにかち割ろうが、自衛隊派兵が決まろうがどこ吹く風と、誰に対しても笑顔を絶やさず、憲法改定の動きには「困ったものです。この国はこれからどうなるのでしょう」くらいは空々しくいってみせ、早寝早起きと犬連れの散歩を励行、定期健康診断をしっかり受けて、眠剤がわりに『失われた時を求めて』を一日たった三十頁だけ読んではうとうとと眠りにつくような日々をなぜ送れなかったのだろう。(P163~P164)とシニカルに記しているところには、ある種の痛ましさのようなものを覚えた。本書刊行から間もなく十年。状況は遥かに悪化しているような気がする。

by ヤマ

'15.12.15. 毎日新聞社 単行本



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