『チョコレート』(Monster's Ball)
監督 マーク・フォスター


 とてもスリリングな映画だった。ことに終幕前、レティシア(ハル・ベリー)が、処刑された夫ローレンス(ショーン・コムズ)の描いたハンク(ビリー・ボブ・ソーントン)とソニー(ヒース・レジャー)父子の似顔絵を刑務所の制服姿の写真とともに見つけて涙を零したとき、その直前のベッドのなかで「大切にされ」ている実感とともに見せた穏やかな充足の表情が印象的だったゆえに、彼女のなかで何かが抜け落ちていったような様子が表情から窺えて、“チョコレート・アイスクリーム”を携えて戻ったハンクがいつ刺されるのか、撃たれるのか、そして、その前に彼女は何を口にするのか、とハラハラしながら観ていた。そんなふうに思ったのは、ハンクが、息子ソニーとの諍いのなかでは、予期せぬ形でいきなり目の前での自死を突き付けられ、言葉の行きがかりとも言えなくはない「ずっと憎んでた」との彼の言葉に対して「僕はパパを愛していたのに」との言葉を最後の楔のように打ち込まれ、先立たれていたからかもしれない。

 だからこそ、ドア口の階段に並んで腰をおろしつつも、まだ固い表情のままだったレティシアがふっと微笑むように口元を緩ませたとき、そして、ハンクの差し出す“プラスティックのスプーン”に乗ったチョコアイスを口に含んだとき、確かに先ほど抜け落ちていったように見えた何かが彼女の表情のなかに蘇ったと感じられたのだと思う。とても美しいシーンで、このベッドからラストに至る一連のハル・ベリーの表情の演技は、実に魅力的で見事だった。だから、星空に向かって「俺たち、うまくやれそうな気がするよ」とハンクが囁いたとき、彼が買い物に出掛けた間のレティシアのドラマティックな心の動きを知ることもないままに、黒人蔑視の父親バック(ピーター・ボイル)を介護施設に預け追い出すことで彼女を取り戻し、先ほどベッドでもうまくやれたと思ってそう言っているハンク以上に、観ている側が「今度は本当にうまくやれるかもしれないな、ハンク!」という気持ちになれるのだろう。

 ハンクとレティシアの恋愛をこのように描くうえで巧いと思うのは、ハンクの父子三代における黒人蔑視の様相について、古い差別意識に塗り固められている父親バックと双子の黒人少年とも仲のいい息子ソニーの中間にハンクを位置させていることだ。彼は、仕方なさそうな風情を多少は覗かせながらも、父親が望むと黒人少年を銃で威して追い払うことができたり、息子ソニーとの殴り合いを止めに割って入った部下の黒人青年に、興奮状態だと「黒い手で俺に触るな」といった言葉を吐いてしまう程度には黒人差別が染み付いている男だ。つまり、父親のように自覚された確信犯的な差別意識は持っていないが、差別的言動について極めて無自覚で無頓着な継承を得ているわけだ。

 ドラマ設定としては、相手が黒人女性であっても自分と同じく息子を亡くしたということで、ある種のシンパシーを覚える姿が、彼が息子を死なせた体験の重みのほどを示すことになる程度には、彼に差別意識が根づいてなければならず、また、そこから本気の恋愛へと向かえる程度には、彼の差別意識は底の浅いものでないといけないわけだが、彼の父親と息子をそのように配置することで余り多くの説明を施さなくても、その位置が判るように設計されているように思う。

 また、レティシアが立ち退きの強制執行を受ける境遇にあるのも巧みな設定だ。車が壊れ困っていた自分にソニーの遺品である四輪駆動車を無償で譲ってくれたハンクの本気を仮に信じられたにしてもなお耐えがたい、バックが浴びせかけた「儂も若い頃にはクロ女を何人も抱いたもんだ。クロ女も抱かなきゃ男じゃねぇよ。」というような言葉は、彼の父親から発せられたものである以上、否応なくハンクを見る度に甦ってこざるを得ないもので、彼女にハンクとの訣別を決心させるに足るだけのものだから、それをも忍んでハンクの厚意を受け入れるには、バックが施設に入所して不在であるだけでは事足りない。他にどうにも行き先がなくて途方に暮れていなければならないし、そのうえでも彼女が自分から頼っていけはしない相手であることを踏まえた展開になっていなければならないわけだ。

 そういう周到な配慮がハンクにもレティシアにも施されているから、ラストへの展開が納得できるのだが、いくつものバリアを背負った二人を結び付けるうえでは、それだけでも不十分で、最初に過ごした一夜のソファーベッドでの濃密なセックスが、ハンクの「こんなのは初めてだ」という呟きをもたらしたように、二人の身体の相性のよさというものが双方の実感として確かめられていたからこそなのだろう。それは娼婦と行う索漠とした交わりとは、行為が同じでも全く異なるものなのだ。観る側にとっては、映画の最初のほうにソニーが娼婦と交わる場面が設けられていることで、対極にあるふたつのセックスを対比する形で感じ取ることができる構成になっている。

 そういう意味では、僕が観た日本公開版では成人指定映画としながらも、ハンクとレティシアの最初のセックスシーンをオリジナル版とは異なるものに改編しているような気がして、いささか不満を覚えた。編集のリズムがどうもそこだけ違っていたように感じたのだが、どうなんだろう。とても重要な意味を持つシーンだと思われるだけに少々気になるところだ。

 思い返して感心するのは、対比の対象となる娼婦とのセックスシーンが、まさに生理的な排泄行為でしかない索漠さをこのうえなく鮮やかに描出していながらも、その場面に娼婦への蔑みを含んだ視線がいささかも宿っていなかったことだ。黒人蔑視にまつわるデリケートな感情ドラマを描いていて、娼婦を蔑む視線が不用意に宿ってしまうと、人を蔑む視線というところで、たちまち欺瞞の匂いが漂い始めることを作り手はよく承知していて、充分な注意を払っている。そして、その場面が息子ソニーの買春でなければならなかったのは、息子を失った後に、同じ娼婦を呼んだハンクが息子のことを訊ねられて俄に不能になることで、彼の喪失ショックを観客に印象づける必要があるからだろう。

 そういう意味では、話題にもなった黒人初のアカデミー賞最優秀主演女優賞受賞とそれに足るハル・ベリーの演技もさることながら、脚本が実によくできていたことが印象深い。また、この作品は、本年度の高知県芸術祭の「優秀映画上映奨励事業」での選定映画でもあるわけだが、成人指定の映画が県の芸術祭に位置づけられたのは、僕の知る限りでは'98 年の日本映画身も心も以来二度目のことで、芸術祭が県の直営事業になってからは初めてのことだし、優秀映画上映奨励事業で選定されたのも初めてのことだと思う。成人指定映画というだけで何かと偏見を招いた時代はもう随分と昔のことになったということだろう。大いに結構なことだ。映画が何を映しているかが問題なのではない。何がどのように描かれ、何が作品に宿っているのかが問題なのだから。

 それにしても、原題の「Monster's Ball」というのは、字幕では「怪物の夜会」と訳されていたのだが、どういう意味なんだろう。今一つピンと来ないままだった。



参照テクスト掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録


推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0211-1out.html#choko
推薦テクスト:「Across 211th Street」より
http://wells.web.infoseek.co.jp/0211.html#m_ball
推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2002/2002_09_30_2.html
推薦テクスト:「La Stanza dello Cine」より
http://www15.plala.or.jp/metze_katze/cinema14.html#choco
推薦テクスト:「FILM PLANET」より
http://homepage3.nifty.com/filmplanet/recordM02.htm#monstersball
推薦テクスト:「銀の人魚の海へ」より
http://www2.ocn.ne.jp/~mermaid/tooisora.html#チョコレート
推薦テクスト:「La Dolce vita」より
http://gloriaxxx.exblog.jp/46720/
推薦テクスト:「Happy ?」より
http://plaza.rakuten.co.jp/mirai/diary/200303020000/
推薦テクスト:「THE ミシェル WEB」より
http://www5b.biglobe.ne.jp/~T-M-W/movietyokoreeto.htm
推薦テクスト:「my jazz life in Hong Kong」より
http://home.netvigator.com/~kaorii/am/monsters.htm
by ヤマ

'02.11.10. 東 宝 3



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