『模倣犯』
監督 森田芳光


 120万部を超えたという宮部みゆきの原作を僕は読んでいないが、原作には遠く及ばないという声を聞いていたわりには、思いの外、観応えがあった。デジタル文化に覆われた現代生活の諸相が巧みに視覚的に映画のなかに取り込まれていて、時代感覚の息づきを基調として備えているという点では、原作者の指名に森田監督はよく応えているように思う。上下二巻にわたる長大な小説を二時間の映画にしているのだから、丹念なストーリーテリングは期待できない分、情緒障害社会ともいうべき現代を描くのみならず、人間とは何物なるものかというところにまで迫る面白さを際立たせた、上首尾のエンターテイメントになっているという気がした。

 かねがね思っていることではあるが、高度情報処理社会というのは、情緒や感情体験に対してさえも、自身にまつわる情報処理として冷静に機械的に、価値観や美意識や倫理感といったものを伴わない形で、自ら設定した目的に対して合理的かつ効率的に対処できる人間を生み出すスキルと環境を準備している社会なのではないかという気がする。

 ピースという渾名を持つ網川浩一(中居正広)は、自分自身と中学時代の同級生の栗橋浩美(津田寛治)を使って、人間の限界線を見極めようとするような強い探究心と意志をもって、実験をしていたかのようであった。人間の持つ思念や妄想としての内面的な闇や悪ではなく、実際の行動としてそれをどこまで現実化できるのかを試すとともに、そこでどのような内面変化が生じるのかということを身をもって試しているように見えた。それは、強烈な自意識を持ち、人間存在の本質に関心を寄せ、明晰な頭脳と果敢な実行力を備えている人間が、何かの切っ掛けで陥らないとも言えないことだとしてあるところが、なかなかに恐いところだ。試されたのは彼ら自身であり、かつ容易に犠牲者になる被害者たちであり、凶悪を摘発できない社会機構である。どこまでもエスカレートしていったのは、試された三者が何らの抑止力を発揮し得なかったということだ。なかでも浩一にとって最も鮮烈であったのは、自身や浩美が耐え難い良心の呵責にさいなまれることも、さして怯むこともなく、悪の深みに嵌まっていくことに馴染めることやそれによって日常生活に対処できないような精神的変調を来すことが何も起こらなかったということだろう。それどころか、ある種の達成感や興奮、意義すらも感じるようになったことが最も鮮烈だったのではなかろうか。

 そういうことを受け取るうえで、浩一が他方で善なる人間というものへの憧れを強く持った人物であることがきちんと伝わってくる形で描かれていることが効いている。ピースの語りの言葉は、総てが騙りや口実ではなく、彼自身の憧れや切望でもあることに、観る側が何らかのリアリティを感じ取れないと、この作品は不快な印象だけに終わってしまうのかもしれない。同様の意図でもって、浩美もまた中学時代には、高井和明(藤井 隆)をイジメから守った勇敢な正義漢であったという設定になっていたのだろうと思う。しかし、浩美はピースには及ぶべくもない。それは、ちょうど高井が有馬義男(山崎 努)に及ぶべくもないことと見合っている。

 ピ-スに代表される、情緒や感情体験に対してさえも、自身にまつわる情報処理として冷静に機械的に、自ら設定した目的に対して合理的かつ効率的に対処できる高度情報処理型人間とは対照的な人物が、旧世代での有馬と二人の犯人の同級生であった高井だ。ともに、家族愛であれ過去の恩義であれ、合理性を不問にした情緒や感情体験の発露をもって自らの行動原理としている人物たちだ。言わば、高度情報処理型人間をデジタル人間と言うときのアナログ人間というわけだが、旧世代にだけ設定していないところが巧みだ。しかし、存在感として圧倒的なのは、やはり孫娘鞠子(伊東美咲)をピースたちに殺された豆腐職人である有馬のオヤジだろう。ピースの自死によって、事件終結を報じるテレビに向かって、そんなことで終わってやしないと憤りつつも、一家惨殺事件の唯一の生き残りで、身寄りがなく縁あって引き取った塚田真一(田口淳之介)が、「もう終わらせてほしいんだ」と悲痛な声をあげて泣く姿を受け止めるばかりか、真一に対して詫びの言葉を発する器の大きさが、観ている者の胸を打つ。自分では試しようのなかったもうひとつの実験を、ピースさえもが託すに足る人物だと見て選んだことが、観ていて納得できるような人物像だ。山崎努が見事に演じていて、大いに魅せられた。

 だから、この作品はある意味で、ピースと有馬の対決の構図にもなっているわけだが、そういう面からは、ピースの悪の粋としての確信犯的揺るぎのなさが底割れするような形での馬脚の現し方をしなかったところに感心した。作品のタイトルでもある「模倣犯」というキーワードからすれば、その言葉が繰り出される場面では、ピースの自意識の過剰さが強調され過ぎるような演出が施されかねないところだが、彼がそういうパーソナリティを備えていることを明確に窺わせながらも、あくまでも計画どおりの行為として、真犯人であることの名乗りとともに果す自死を貫徹させていたために、確信犯的揺るぎのなさが損なわれなかったように思う。だからこそ、二人の対決は、五分の拮抗が保たれるのであり、ラストの場面が効いてもくる。そして、ピースの壮大にして恐ろしい実験が単なる猟奇犯罪の口実に落ちぶれずにも済むのだから、演出的には非常に重要な場面だったという気がするのだ。

 これだけの作品が遠く及ばないとされる原作というのは、さぞかし面白く、奥深いのだろう。そう思う一方で、映画があまり芳しい評判を得ないのは、犯人が登場しないままに事件が展開していっている前半の何とも不快で腹立たしい気分があまりに強く印象に残ってしまうような観客が、想像以上に多いのかもしれないせいだとも思った。だとすれば、それは、ある意味で卓抜した演出力の証明ということにもなるわけだ。そんなふうに思うくらい、不評というのが僕にはピンとこない作品だった。



参照テクスト:『模倣犯』をめぐる[めだかさんとの対話]往復書簡編集採録
参照テクスト:『模倣犯』原作小説読書感想文

推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2002mocinemaindex.html#anchor000822
推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0206-7gaichu.html#mohouhan
by ヤマ

'02. 7. 1. 東宝1



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