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『細雪』('50) | |||||
監督 阿部 豊
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県立文学館での「日本文学原作の映画上映会」の第二弾ということだが、前回の『にごりえ』を随分と上回って、ほぼ定員一杯の集客を果していた。貴重なフィルムの上映をすることが知られてきたのか、文学館の広報活動の成果なのか、いずれにしても結構なことだ。二回の上映会の間に設けられた解説の部分も前回とは比較にならないくらいきちんとしたものになっていた。高知大学教授の鈴木健司氏は、わずか30分という、限られた時間の「谷崎潤一郎と『細雪』」と題する話のなかで、事前配布の資料によって実に手際よく、映画と文学の両方における谷崎と『細雪』の要点を説明してくれていた。本来の専門ではないとのことだが、インターネットで引き出した資料を使った解説により、僕は、思いの外、谷崎が映画というメディアに強い関心を寄せていたことを知った。また、谷崎文学において『細雪』の占める位置や当時の時代背景、谷崎の略歴紹介など、事前情報としては質量ともに適度な按配だったような気がする。 『細雪』は、これまでに三度映画化されているそうだ。阿部作品は、その第一作で、今から半世紀以上も前の作品になる。僕は、三度目に当たる市川崑作品を '83年の公開当時に観ているが、小説のほうは読んではいない。二十年前に観た市川作品もなかなか面白かった記憶があるのだが、善くも悪くも阿部作品以上に華があって、女性の生態活写的な側面では、むしろ阿部作品のほうが現実感がある。原作は昭和十一年から昭和十六年にかけての物語で、戦時中に発禁処分となり、自費出版の後は印刷頒布自体が禁止されたものが戦後ようやく刊行され、ほどなく最初の映画化となったそうだ。その経過からすれば、その間に世情の激変があったとはいえ、そう遠くはない時代の話ではあったわけだ。また、旧体制の凋落と新時代の訪れという点では、戦後もまたまさしくその最中にあり、否応なく現実感が宿るのが当然なのかもしれない。 かなり怪しい記憶だが、確か市川作品では、花見に始まり、花見で終わっていたような気がするのだが、阿部作品では晴れやかな場面は非常に乏しく、最後も自ら招き選んだ事々ながら、新たな運命に押し流されていくこれからへの心許なさやそこから逃れようがなくとも生きていかざるを得ない覚悟のようなものが窺われる印象が残った。それは、市川作品が残していた、それぞれがそれなりの過程を経て、自らが選び取った人生に気持ちを新たにして踏み出していくような印象とは、随分と趣が異なっている。特に妙子('50:高峰秀子、'83:古手川祐子)の人生への眼差しに大きな違いがあるような気がする。 それにしても、美化も蔑視もなく、透徹に向けられた女性への眼差しが見事だ。リアルというよりは、いくぶん誇張した造形によって、却ってリアリティを感じさせる人物描写は、おそらく原作の備えていたものであろうから、五十年余前の戦時中という点からも流石の女性通と恐れ入る。市川作品よりも阿部作品のほうが、華の乏しさによってむしろ、その点での原作の持ち味というものをよく伝えているのかもしれない。雪子('50:山根寿子、'83:吉永小百合)に向ける眼差しにはいたわりと苛立ちが同居していて、雪子のなかに、か弱げな頑迷さを観ているところがなかなか面白い。阿部作品のほうが、より雪子に厳しく、市川作品のほうが、より同情的であったように感じられるのは、雪子的な女性の希少性というものが、時代的な大きな変化として訪れていたからなのかもしれない。また、幸子('50:轟夕起子、'83:佐久間良子)については、両作において、際立った差異を覚えないところがまた一興だ。時代的な状況の変化などによっては揺るぎようのない、ある種の女性の典型として堂々たる存在感が宿っているように感じられた。 古い映画を観ていて、思いがけなく目に留まったという点では、ミニチュアセットの特撮が目を惹いた洪水シーンと妙子の舞の伴奏に弾いていた三味線に、竪向きに立て、まるで胡弓のように弓で弦を引いている姿があったことだ。確か日舞と言っていたから、胡弓ではないと思うのだが、どうなのだろう。 参照テクスト:掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録 | |||||
by ヤマ '02. 6.22. 県立文学館 | |||||
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