『模倣犯【上・下】』を読んで
宮部みゆき 著<小学館>


 十年前に映画化作品を観たときに、僕は大いに感心し、これだけの作品が遠く及ばないとされる原作というのは、さぞかし面白く、奥深いのだろうと綴ったのだが、確かに途轍もない力作だというふうには感じた。映画で言うなら端役に過ぎない登場人物たちに対してさえも、生い立ちとまでは言えずともその負ってきた人生の厚みを感じさせるには充分なくらいの丁寧な描出が幾つかのエピソードを添える形で施されている。しかも端役とはとても言えない登場人物がかなり多く現れる。上下二巻にわたる長大な小説になるのも道理なのだが、その醸し出すスケール感は相当なもので、連続殺人事件を扱って、事件に掛かる犯人探しのミステリーや追跡劇のサスペンスを描くのではなく、かような事件を起こし得る人間存在というもの自体へのミステリーを指向しているように感じた。

 だから、映画化作品を観て長大な小説を二時間の映画にしているのだから、丹念なストーリーテリングは期待できない分、情緒障害社会ともいうべき現代を描くのみならず、人間とは何物なるものかというところにまで迫る面白さを際立たせた、上首尾のエンターテイメントになっていると感じた僕からすれば、改めて見事な映画化作品だったのではないかという気がしてならない。

 上巻では他の人物に比べ敢えて過去への言及を避けることで謎を深めている印象を残していた、本名さえも語られない謎めいたピースに比して、栗橋浩美と高井和明の人物造形と関係が非常に印象深く、映画化作品では各登場人物の背景を小説ほどに詳しく描き出す暇はないなかで、津田寛治が栗橋浩美の歪みを体現した見事な人物造形を果たしていたことに改めて感心した。浩美という名前にまつわるアイデンティティの脅かされた過去を負っていて今なお悪夢に苛まれているという背景は、彼の人格的歪みを解するうえで非常に重要なのだが、映画では言及されていなかったように思う。それを補う形で、津田寛治の演技が説得力を与えていたような気がした。DVDなどで事実確認をしていないし、古い記憶なのでいささか心許ないが、『ザ・マジックアワー』['08]で佐藤浩市が長大なナイフを舌でベロリと舐めた場面に『模倣犯』での津田寛治を想起し、かの作品にも同じ場面があったような気がした覚えがある。

 それはともかく、僕の嫌いな“勝ち組・負け組”という言葉が人口に膾炙するようになったのは、いつ頃からなのだろう。酒井順子の負け犬の遠吠えがベストセラーになったのは2006年のことで、本作の初版が発行されたのは第1次小泉内閣の発足する2001年4月と同じ月だったりするのだが、現行の学校制度のなかで勝ち組になるべく勉強に励む子供たち(上巻 P667)というフレーズが出てきて少々驚いた。同時に、付和雷同しやすい我が国のマスコミに対する強い不信感(上巻 P223)宣伝こそが善悪を決め、正邪を決め、神と悪魔を分ける(上巻 P278)といったフレーズに対して、ある種の共感を覚えるとともに、こういった言葉の数々から窺える作者の持つ時代や社会に対するアンテナの確かさに、信頼感が抱ける作品になっていたように思う。一九七九年までに生まれた日本人は、どれほどアメリカナイズされているとしてもそれは単に“-ナイズ”であって本物ではないから、しゃべりながらアクションしようとすると、わざとらしく野暮ったくなってしまう。その点、一九八〇年以降に生まれた若者たちは、もう“アメリカナイズ”という言葉そのものの意味さえ知らないくらいにネイティブに、アメリカの、英語圏の文化のなかで成長しているから、さりげなく自然にアクションすることができるんだ(上巻 P513)として言及されている若い世代について、かつて流行った“新人類”だとか“宇宙人”だとかいうラベリングで語るのではなくて、世代間ドラマの色合いが強く感じられるのも、作者の時代や社会に対する認識が強く働いているからで、とんでもない“悪”を実現しようと企てたピースたちのみを視座においているわけではない。被害者となった若い女性たちのみならず、若い高井由美子がホントに信じられないような話だもの。被害者の遺族に、減刑嘆願書を書けと迫る加害者の家族。ありっこないじゃない、そんなこと。そんな、人の道に外れたこと。(上巻 P613)と思う樋口めぐみの存在が、そういう意味ではとても重要で、彼女を由美子が覚えたような非現実感で捉えるのかどうかは、ピースや栗橋浩美をどう捉えるのかにも繋がってくる部分があるように感じた。

 そのうえで、だが、ピースは違う。相手が誰であれ、どんな立場の人物であれ、ピースの間違いを指摘したら、その瞬間にその人物は、ある奇妙な装置のスイッチを押してしまったことになるのだ。そのスイッチは、ピースという人間の、人間らしい感情の発露の一切を停止させてしまうスイッチなのだ。…ピースって、本当はよくできたアンドロイドなんじゃないか。そしてこのアンドロイドは、…ピース自身に対して否定的な言葉を投げかけられると、何らかの防御プログラムが走って、その場で停止してしまうのだ。(上巻 P689)と表現されたりするピースの人物像に対する読者への問い掛けが込められている作品ということなのだろう。

 そして、長編作品の端々において、押しつけがましくない形で作者の立ち位置を明らかにしていると感じられるところに好感を抱いた。とりわけいったい何をするための番組なのだろうと、義男は画面を見ながら考えた。何を言い争っているのだろう。これが何のためになるのだろう? コメンテーターふたりの論争を中断して、コマーシャルが入った。…コマーシャルのなかで乱舞する若い女性たちのあでやかな姿が、その商品の宣伝のためのものではなく、別の目的のために存在するもののように思えてならなかった。わたしたちは玩具、綺麗な玩具、とっかえのきく玩具、捕らえても、殺しても、埋めても、好きなようにしてかまわないただの玩具-そう呼びかけているように思えてならなかった。 鞠子を殺したのは、ほかの誰でもない、この呼びかけに応えた人間ではなかったのか。…いつからこういうことが始まったのだ。誰がこんなことを始めたのだ。そして、誰がこんなことを止めさせてくれるのだろう? 少なくとも、テレビじゃない-テレビだけは違う。(上巻 P284)には、現代に生きる女性作家としての立ち位置が明確に表れていたように思う。栗橋浩美の思考として綴られていた誘拐され殺された若い女に対して、世間が示す同情のうち、何パーセントが本物だろう?…何も悪いことをしていないのに、さらわれて殺されるわけがない。きっと愚かだったのだ。きっと強欲だったのだ。きっと男に飢えていたのだ。だから、百パーセント本気で悲しんだり怒ったりしてやる必要などないのだ…女は商品だ。どんな社会問題も、ひとりの女がさらわれて残酷に殺されたというニュースの前には完敗するしかない。女は商品であり、スターなのだ。(上巻 P690)は、その反映に他ならない的確な指摘であり、問題意識であるように感じた。

 だが、犯人は彼女を、どうやって誘導したのだろう。言葉巧みに、イタズラだと説明したのだろうか? 千秋が男性であったなら、首を吊って意識が飛びかけるくらいの状態で自慰をすると気持ちいいよ-と唆すという手がないでもない。実際、この隠れた趣味に浸っていて、うっかり首が強く締りすぎてしまい、事故死するという例は少なくない。だがこれは男性ばかりだ。千秋にはあてはまらない。(上巻 P217)といった部分には、いささか妙なバイアスの掛かった男性観が窺えるような気もした。

 ともあれ、確信的に完璧な悪の形(上巻 P665)の実現を企図し、本当の悪はこういうものなんだ。理由なんか無い。…最初から根拠も理由もなかったら、ただ呆然とされるままになっているだけだ。それこそが、本物の『悪』なのさ(上巻 P659)と嘯くピースを描いているのだから、「人間とは何物なるものかというところにまで迫る面白さを際立たせた、上首尾のエンターテイメントになっている」と感じさせてくれた映画化作品は、やはり原作の的を外していない秀作だったと改めて思った。

 映画化作品の中核をなしていたかのような印象のある有馬翁VSピース網川の対決は、上巻では全く出て来なかったので、下巻でどのような展開になるのだろうと思っていたら、そんな対決の図式は殆ど出て来なくて些か驚いた。その代りに圧倒的な印象を残しているのが少なからぬ登場人物に対する確かな人物造形だった。本作が宮部みゆきの代表作なのは間違いないように思う。

 前畑滋子の先輩ライター板垣の言ったキーワードは“突然破壊される人生”だ(上巻 P166)の部分を丹念に描出し、報道では余り触れられない被害者遺族の抱く罪悪感や加害者家族の見舞われる悔しい思いが強く描かれていた。どの立場のどの人物も概ね一角の人物で、それぞれの持っている限界のなかで皆が精一杯に生き、格闘しているさまが好もしく、市井の名もなき人々への信頼感が伝わってくる感じが好もしかった。

 原作小説でピースの本名である網川浩一の名が出てくるのは、上下巻1,400頁余りの小説の下巻235頁で彼自身が高井由美子に名乗る場面だった。なかなかのものだと思った。映画化作品では、専ら有馬翁と網川浩一の対照がクローズアップされていたが、森田芳光が原作小説の網川浩一の人物像を高井和明がピースもヒロミも全然大人じゃない。さっきから、おまえらのしゃべってる話を聞いてると、まるでガキの自慢話だ。まるっきり子供だ。子供ってのは、みんな自分が世界でいちばんだって思い込んでる(下巻 P54)と指摘している通りのものから改変させて、確信犯としての求道者的な悪の体現者にしたのは、有馬翁のこの野郎には、この野郎にだけわかる物差しがあるんでしょう。当たり前の人間が頭で考えて作り出すことのできる物差しと、かなり違う物差しですよ(上巻 P243)との指摘からだったのではないかという気がする。そして、そうするほうが作者の炙り出していた情緒障害社会ともいうべき現代の高度情報処理社会のアクチュアリティが鮮明になると考えてのことだったように感じた。

 そして、ピースは念を押した。自分たちが描いているビジョンにとって何よりも大切なのは、独創性なのだと。どこかで聞いたことがあるような話を持ち込んではならない。そんなことをしたら、すべての意味が消え去ってしまう(上巻 P506)と固執し、TV番組に出演中に前畑滋子からサル真似ですよ、サル真似。大がかりな模倣犯です。読んでいて、わたしの方が恥ずかしくなるくらいでした(下巻 P667)とハッタリをかまされて激高し、僕が、この僕が、ありものの筋書きを借りてきて、自分のものみたいな顔をして社会に提供したというのか? 僕が? この僕が?(下巻 P667)と吐露してしまう人物像から敢えて高井和明の指摘した幼稚さを除いたのは、実は、目指すゴールはひとつなのではないか。そのゴールとは、自分の「説明」に説得力を持たせる、ということ。…あたしたちが―いいえ、みんなと一緒よ、みんなでやってることよなんて顔をするのは卑怯だ―あたし、このあたし、この前畑滋子がやっているのは、…(下巻 P289)と傍点付きで強調されている前畑滋子の述懐にも窺える現代人の“極端に肥大した自意識に見舞われている部分”を重ねて、いい歳をしていつまでも自分探しや自己実現などに強迫されがちな現代人の病理をシンボリックに網川浩一に託そうとした潤色だったような気がした。

 他方で、原作小説で丹念に描いていた“突然破壊される人生”の描出をある種、類型的なまでに寸描化し、樋口めぐみや水野久美といった重要人物を割愛して前畑滋子や塚田真一との対話を廃していることに原作者は不本意を感じたのだろうという気がした。長編小説の映画化に際してニセ弁護士の浅井祐子のエピソードを割愛するのは至極真っ当な気がしたが、原作小説で被害者の遺族の連絡なんて、結局それだけのものに終わってしまうのではないのか。遺族が手をつなぎあって、本当に慰め合うことなんてできるのだろうか? 社会のために、次の邪悪を防ぐために、事件を忘れさせてはいけないだって? 確かにそのとおりだ。だが、それでは私らは、生きながら死に続けることになる(下巻 P261)との有馬翁の想念が心に残った。そして、前畑滋子が塚田真一に漏らすちゃんとした訓練を受けてもいないのに、人の命に関わる治療をしてるみたいな感じ。すごく大切な業務を、研修も受けずにいきなり任されてるみたいな感じ(下巻 P281)も印象深かった。

 そして、いわゆる先進国ってやつには、食うには困らないけど自我を満足させることのできない人間が溢れかえっていてさ、そういう奴らのなかから、ある確率で連続殺人者が登場するんだ、これは先進国の宿命なんだよ― 滋子は大きな声を出して言った。「バカバカしい」 あたしったら、なんてバカなことを考えるんだろう。これは犯罪者の“動機”じゃない。人を殺人や破壊行為に駆り立てるエモーションじゃない。これは―これは―説明だ。(下巻 P287)と記し、有馬翁にあんた、誰のためにルポなんか書いてるんだね? あんたの目的は何なんだね? あんたこそ、私ら被害者の遺族の本当の気持なんか、全然わかっとらんのじゃないかね? そもそも、わかろうとしてないんじゃないのかね? あんたには、そんな必要なんかないんだからよ…ルポを書いて、事件について解説するってことは、川のこっち側からもあっち側からも書くってことだ。どっちに肩入れしたって、まともなものは書けやせんでしょう。だいいちあんだ、誰があんたのルポを読むと思っていなさるね? あんたの書いた物に飛びついて、事件の詳しいところを知りたがる人たちは、事件には関係のない人たちばっかりだよ。そうだろ? あの事件が対岸の火事だから、詳しいことを知りたがるんだよ。あんたはそういう人たちのために書いてるんだ。ほかの誰よりも、あんたがいちばんの野次馬だ。あんたには、高井由美子さんを利用する権利なんかない。ましてや、あの子を責める資格なんかないよ(下巻 P319)と有馬翁に言わせている部分を割愛しているのは、原作者として見過ごせなかったのかもしれない。

 映画化に際して原作者から指名しながら、映画の出来に不満を抱いていたらしいと聞いて、そんなふうに思った。まさかとは思うが、原作のオリジナリティの大事な部分が損なわれているように感じたのかもしれない。時を隔てて原作小説を読んだ読者としては、原作を下敷きにそのエッセンスを的確に汲み取ったうえで、決してなぞるのではなく、アンサームービーとしてオリジナリティをも窺わせる潤色を見事に果たした映画化作品だったと思えるだけに、作者の不満というのが解せない気がした。
by ヤマ

'14. 1. 3. 小学館単行本



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