『模倣犯』をめぐる往復書簡編集採録(その1) | |
「多足の思考回路」:めだかさん ヤマ(管理人) |
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(ヤマ) 『模倣犯』の感想、拝読しました。大変面白く読みました。僕も日誌を綴っておりますので、添付ファイルでお届けします。以下の、めだかさんの感想に対する僕のコメントの参考にしていただければと思います。実は、僕は、日誌にも綴っているように原作は未読なんです。 (めだか) あれは原作を知ってちゃダメなんですよね、きっと(笑)。ストーリーさえも知らない白紙がいい。映画→原作は問題無しに楽しめると思います(笑)。 (ヤマ) 僕もそう思いますね。でも、不評をかこっている観客の総てが既読者だとは思えませんけどね(笑)。 (めだか) 私も切り離して鑑賞したつもりでいて、まだ原作のイメージを棄てきれていなかった自分の見方をヤマ様の日誌を読んで再認識しました。 私は、ピースの人物像を原作どおりのままに最後近くまで見てしまったために、見落とした部分が多いように思います。 (ヤマ) 僕は、かなり改変を加えているのではないかと思いつつ、その辺りが気になっていたので、めだかさんの詳述がとても面白かったです。めだかさんがお書きになっているその流れに即して順次思うところを添えていきたいと思います。 (めだか) 私も、ヤマ様の日誌と私の日記へのコメントを読んで、別の改変部分を思い出したり、その改変に理由が見つかった気がしたりしましたので、順次書かせて戴きます。 (ヤマ) ありがとうございます。 (めだか) 小説未読の方にこういうことをしてはいけないのでしょうけれど、ヤマ様が私の日記をお読みくださったことから考えて、おそらく小説はお読みにならないおつもりと判断いたしましたので(笑)。 (ヤマ) ご賢察ですね(笑)。文庫になれば、読むかもしれませんが、それよりも今こうして意見交換できるほうが嬉しいです。 (めだか) これは、私のほうが絶対に得をしていますね(笑)。ヤマ様のおかげで、引っかかっていたものが取れてスッキリした気分です。 でも、ネタバレしたところで、あの小説は面白さが削減されることはないかと思います。犯人探しの小説ではありませんし、書き込まれた緻密な人間は、ミステリーという範疇を超えています。 (ヤマ) 【(1)原作では被害者の数はもっと多く、また、原作では殺害されていない人物(前畑昭二)を映画では事件と関連させるために殺したりしている。】 これが原作と違っているとは驚きました。 前畑滋子を塚田真一と同じ、被害者遺族の側に置くということで、取材する側される側ということのみならず、マス・メディアに対する問題意識を喚起する上でも非常に重要な設定だと思います。 (めだか) 被害者側に置いたことは、勿論、前畑滋子の背景や周囲を説明する時間を省く意味もあったでしょう。しかし、小説ではかなりの頁数を割いているメディアの立場とそれへの疑問を、この変更一つで自然に映画に取り込んでいるのは上手い、変更ですよね。ここが、できすぎと感じる人はいるかもしれませんが。 原作では、ピースがメディア・デビュー後に滋子と対立していくことになるという構図(滋子は駆け出しでまだ自著を持っていません)を、滋子の著書とその読者という形で最初から出しています。 (ヤマ) そうですよね、上手い変更です。全くもって驚きましたよ。おまけに、真一に取材した被害者遺族ルポもものしてないなんて、すごい改変ですね。 (めだか) ああ、そうか。ここで真一も自然に事件に取り込んでいるんですね。見落としてました。ピースが真一を第一発見者に選んだことばかりに気をとられていました。見終わって考えると、この辺、自然になるように上手く構成してると思わされるんですよね。 (ヤマ) 映画版『模倣犯』では、とにもかくにもメディアに向ける視線が特徴的ですよね。「報じるということ」、「報じられたことを知ることでわかった気になること」、「言葉になった生の声のみを過大に重要視すること」、「メディアに取り上げられないことが存在しないことのようであること」と同様に「メディアに取り上げられなくなることで消滅したかのように扱われること」。 真一や滋子の存在などは、まさにそのためにあると言えるように思っていたので、この原作の違いには驚きました。 (めだか) 原作でもこの視線はあります。ただ、映画のほうがよりはっきりと意図的に表に出しています。ライブ殺人などという、原作には全く無い事件を映画で創作していることから考えても。 (ヤマ) 全く、ここまで原作から自由になれるなんてたいしたもんですよ。 (めだか) 映画で警察内部の動きを省いたのは、あくまで焦点をメディアに絞るためという見方もできますね。 (ヤマ) まさしくおっしゃるとおりです。加えて、単なる謎解きものサスペンスにはしたくなかったんでしょうね。 【鞠子がピースと浩美の犠牲者に選ばれる原因が映画では意味ありげだったのだが、原作にはそのような部分はない。】 これは、僕は映画でも特に意味ありげだとは思いませんでした。めだかさんは、どのあたりに意味ありげを感じたんですか? (めだか) なんとなく。雰囲気でしょうか。 食卓でピースと浩美が会話もなく黙々と食事をしている風景のなかで、鞠子のその台詞は流れたと記憶しています。それまでの食事風景ではこの二人はワイングラスを持ったり、会話をしながらだったので、妙に意味ありげに見えてしまったのです。 (ヤマ) なるほど。 【いったい彼女に「私を殺してもいいから、携帯電話の記録は消しておいて。私がどこへ行こうとしていたかをお祖父ちゃんには知られたくない」(うろ覚え)とまで言わせた理由は何だったのだろう。】 これはもう僕は、実に単純に、自分がいわゆる出会い系サイトのようなものを通じて見知らぬ男と会うようなことをしていたと知られたくなかったということだろうと思ってました。 (めだか) 原作の鞠子はそういう女性ではないのです。むしろ、そういう行為はキッパリと拒絶するタイプです。ピースたちに誘拐された後も、最後までピースを拒絶し、浩美はピースがプライドを傷つけられたがゆえにマスコミデビューの犠牲者に鞠子を選んだと考えるくらいに、自分を持った女性として書かれていたように思います。つまり、祖父の義男の信頼に足りる女性です。 それを出会い系サイトで会った男性と会ったり不倫をするような(こっちは私が一瞬想像したことです)女性に変えることは、意味がないように思います。この台詞が何故、ここでいきなり出てきたのかが映画のどこにも繋がらず、分からないのです。 (ヤマ) 出会い系サイトを使っている人の総てが、いわゆる性的アバンチュールを楽しんでいるものでもないとは思いますが、この設定によっても、また現代性が一瞬にして切り取られますし、僕が日誌に綴ったようにピースが試したものが三つに増えますよね。 僕はそこに意味があるように思いました。 (めだか) 「容易に犠牲者になる被害者たち」ですね。なるほど。 ヤマ様のこの言葉に、拘束されてジグゾーパズルを与えられたり、獣のように食事していた被害者たちの映像が浮かびました。 (ヤマ) 狂気の世界のほうに行ったのか、虚けたように化粧に専念している裸女もいたような...。 (めだか) う〜^^;、考えると不快だけれど、勿論、鞠子もこの一員だったわけですね。 (ヤマ) そうですよ、映画では。 (めだか) ヤマ様は、鞠子が誘拐される前に携帯電話に入ったメールの内容を覚えていらっしゃいますか? 私は重要とは思わずに忘れてしまったのですが、非常に短文であったように思います。とても緊急に行くような文ではないと思い、違和感があったので(場所も書いてなかったし、私ならまず、その場で返信をするんじゃないか…と)、印象にだけ残っているのですが。それに誘拐するときも、ピースたちは予め待ち受けていたような…。 (ヤマ) 真知子(でしたっけ)母親が言ってましたよね。今から帰るってメールが入ったっきり、帰ってこないって。義男が、鞠子だって遊びたいときもあるさって答えてました。たぶん鞠子が帰ろうとしているときに思いがけなくピースたちからメールが入ったんでしょうね。彼らとは、それまでにもメールでの付き合いがあったのだろうと思います。ひょっとすると、会うだけは会ったこともあったのかもしれません。 (めだか) 豆腐店を予め下見までしていたくらいですから、当然、鞠子の周辺は調べていたでしょうけれど。(それでなくてはピースの計画は成り立ちませんものね) (ヤマ) それはそのとおりでしたね。いまどき感心な娘に見えたからこそ、標的にされたという気がします。ピースの実験目的という観点からは。 (めだか) 最初から鞠子よりも有馬義男がピースの本当の標的だったようにも見えますね(笑)。 (ヤマ) そこまではいかないんじゃないかと思いますが、予期せぬ好敵手に巡り会った感じですかねー(笑)。 【(2)は、原作にはない事件。これにはあまりにも現実味が無く苦笑してしまう。それとも、本当にマスコミってこういうことをやりかねないのか?】 先日のテレビ東京の窃盗ドキュメントの件じゃありませんが、あの挿入CMから察することの出来る深夜枠なら、むしろ僕は、犯人側の運びさえうまければ、やりかねないと思いますよ。 (めだか) なんだか、最近のある事件でそういう気もしてきたところです(笑)。 (ヤマ) オウムのときもそうでしたが、「報道の自由」という大義名分と特ダネへの興奮、耳目を集めさえすればってとこでは、ピースらともさして変わらぬ感覚をマスメディアは持っていると思うし、森田芳光は、そこを前面に持ってきたかったんだろうなという気がします。 (めだか) オウム以来うんざりして、私はワイドショーの類やバラエティ番組、週刊誌の類は、一切見ないことにしているのです。が、あれで少しは体質改善かと思われましたが、やっぱり喉モト過ぎればなんとやら…で同じことなんでしょうか(苦笑)。 (ヤマ) だと思いますよ(とほほ)。 【原作ではボイスチェンジャーは声は変えられるけれど、声紋は変えられないということが、犯人複数説と浩美を犯人と特定する決定的な証拠になっている。また、携帯電話の逆探知も行っていて、アジト特定の情報になっている。だが、映画ではボイスチェンジャーの他に、リアルタイムでデジタルで声紋を変えていて、犯人複数説は有馬義男の電話を受けたときの耳で出てくる。携帯電話の逆探知もできず、他にもデジタルという言葉が犯人の台詞に使われたりしていて、”デジタル”への拘りが見られる。・・・声紋って本当にそういう方法で変えられるのか? それって簡単? 映画ではノートパソコンでやってたけどね。】 ここにも瞠目しましたね。 技術的なことの可否はわかりませんが、なんか凄く森田監督の確信犯としての意図が浮かび上がってくるように思えました。ボイスチェンジャー以上の手段でもって、声紋では尻尾が捕まれないような犯人像に変えているんですよね。僕が映画から受け取った“横綱対決”への道具立てですね。 僕は日誌にも綴ってあるように、映画では、ピース対有馬の孤高の頂にある横綱同士の一騎打ちの構図を提示していると思ってるんですよ。 実際には技術的にできないことだとしたら、余計に森田芳光のこだわりが感じられるじゃありませんか。 (めだか) 映画で義男が「おまえら二人だろう」と言ったとき、背筋がゾクゾクっとしましたよ。しかも、この台詞を伝えたのがピースに対して、というのが効いてます。 もうひとつ原作のネタバレするなら、この台詞は原作にもあるんですが、ただし、それを伝える相手は浩美なんです。義男は、テレビの生中継の犯人の話し方を聞いて複数犯という仮説を立てますが、電話ではピースと話をしたことは一度もありません。 (ヤマ) この差は、大きいですよ。 もはや森田芳光の改変意図に対する僕の思いは、確信に近づいて来ちゃいましたね(笑)。 (めだか) 一度もないというのは間違いでした。最後に、拘留中のピースが真一に電話をかけてきて、それを横から義男が取り上げて、一度だけ話をします。 けれども、所詮原作のピースは、実は中味がない。義男の言葉は素通りしてしまう・・・という印象でした。哀しいです。 映画では、本命一騎打の構図をとってるんですよね。例えるなら、宮本武蔵と佐々木小次郎のようなイメージでドキッとしたんです(笑)。 (ヤマ) そこでは、ピースを横綱の位置に置くためにも、声紋判定ごときで尻尾を捕まれたり、逆探知でアジトを抑えられたりするような手抜かりがあってはいけないんですよ。少なくとも、技術レベルの問題においてピースたちが後れをとってはならない。 (めだか) これを伺って、私はピースたちの食事のシーンが納得できました。毎回、コース料理にワインの食事、ピースの話し方、服装。ピースの全てが自分のコントロール(計画)下にある行動だという、完璧であるという、或いは完璧であろうとする意識の表現ですね。 (ヤマ) おっしゃるとおりだと思います。 犯人がデジタル的で、尚かつ完璧でなければならないと同時に、それを見破るのは、気配といったアナログでなければならないし、その人物は、アナログ側の横綱、有馬でなければならないんですよね。というか、誰もが欺かれていた部分を会話の気配によってのみ見破るという職人的皮膚感覚の洞察力の卓抜さによって、有馬の横綱イメージを補強していると思うんですよね。 【(3)は、原作では和明は知能が低いどころか、かなり鋭敏な思考力の持ち主である。その冷静な洞察で、浩美が幼い頃に親から受けた心の傷を見抜き、そのために異常な行動を取る浩美を、友人として案じ助けようとする善良で誠実な人物として描かれている。最後は、精神の平衡を失った浩美を説得することに成功し、心を通じさせることができる。】 これはもう、浩美も和明も全く人物像が違いますね。 僕が映画から受け取った人物像と作り手の意図というのは、あながち外れてはいなかったのかもしれません。これほど確信的に変更を加えているのは、そこに必ず意図があるからですよね。 【映画ではあくまで一途に浩美を友人と信頼して、彼を説得する和明。】 信頼ではないですよ、たぶん願いだと思うけどなー。 和明にはわかってたんじゃないのかな。でも、昔の彼を知っていて、その恩義と憧れをいつまでも損なうことなく持ち続けているのが和明ですよ。その理屈を越えた感情が、おそらく身の危険をも察知したうえで、あのような行動を取らせたんでしょうね。 そういう意味では、映画でも彼は愚鈍ではないですよ。いち早く浩美の犯行と気づいて、新聞報道にも尋常でない関心の強さを示していたし、山荘で殺されかけたときも、こうしているほうが却って安全だと思ったと言って、そのとおり、その場では生き延びおおせたわけでしょ。 【ところが、浩美のほうも態度は見下してないがしろにしているが、最後の一線は越えることができない様子なのがちょっと嬉しい。】 理屈抜きの全面受容の相手に向かってなお刃を向けられる人間は、どんな凶悪犯罪に手を染め、身も心も汚そうが、いるものではないって人間観ですよね。 (めだか) う〜ん^^;あそこでピースに裏切られなかったら、浩美はどうしてたかしら? とは思いますけれどね(笑)。映画の浩美は随分と楽天的だったから、殺せずにまた連れ帰ってもイイくらいに思っていたかもしれませんけれど。それとも、二人で逃げたかしら。 (ヤマ) だからこそ、映画でもピースによって葬られることになってるんじゃないですか? 浩美にそういう人間性の部分を貫徹させても嘘臭くなるじゃないですか。最後には手を下した可能性ありですよ。 (めだか) いい加減な奴でしたものねえ(笑)。 (ヤマ) でも、その前にためらい、ピースを制止するところに意味があるんです。 (めだか) あそこのシーン、私は好きなんです。救われたような気持ちになったんです。 原作では、ピースが殺すわけじゃなくて、事故で死ぬんですよ。 (ヤマ) 【ここでは「どうして僕のところまで上がってきてくれないんだ」とピースが言うシーンがあり、彼の浩美への期待…というか情が出ている。】 僕は、情というよりは、日誌にも綴った実験者からの視線として、成果のほどに対する不満を表明しているように受け取りました。そして、それは歩みののろさに対する多少のいらだちとともに見下す視線であるように感じていました。 (めだか) 実験動物が成果をあげないので見切って殺したというところでしょうか。 (ヤマ) 成果をあげないので見切ったというよりは、もう不要だったんですよね。そして、同級生や共犯者をも殺す自分というのが、彼の実験目的からも必要だったということでしょう。 そういう意味では、【自分を上のレベルと見ているにしても、和明と浩美の関係に嫉妬していて、その感情が浩美を裏切るという形になったようにも見える。】というのは、僕は思いも掛けませんでした。ピ−スはそういった「関係性における情」といった感情とは、訣別することを選択した人物だと思っていたからです。 (めだか) この辺り、私はやはり原作のイメージからピースを見ていたからでしょう。人間の情というよりも、人間らしい欠陥のある人物という見方で、感情までは自己のコントロール下に置けていない人物と見ていたのです。 (ヤマ) おそらくここのところが森田芳光の改変の核心部分ですよ。ピースを欠陥者にしちゃうとただの猟奇犯罪ものになっちゃうと思ったんでしょうね。原作の長編小説で描き込まれたものを二時間程度の映画作品では表現できないとなれば、別なものを造形して、原作とも拮抗できるものに仕上げたかったんでしょう。 (めだか) 納得です。ピースの人物をそう読むと、話が一貫するように思います。ピースは、全てにおいて確信犯だったわけですね。 (ヤマ) 僕はそう思ってて、そこが面白かったんですけど、そこのところが原作の既読者には、どうしても納得がいかないんでしょうね。半ば、許しがたい改変に見えるんですよね、きっと。 【浩美が残虐な殺人者ということに違いはないのだけれども、浩美に情を感じるところだし、和明が浩美が殺人者だと知っていても、それでも好きでい続けて一生懸命になっているというのが、小説の冷静で大人な和明よりもグッと胸にきてしまう。とても愚かな行動かもしれないけれども。】 映画のほうで意図的に変更した非常に重要な設定ですよね。 全体の対決構造にも関わってくるのですが、よくある犯罪もののような、知力対決になっちゃダメなんですよね。ピース対有馬にしても、ね。 【(5)は、原作では真知子は鞠子の失踪で錯乱し、交通事故に合い入院し、心を閉ざしてしまう。映画では、真知子は精神錯乱で入院する。】 交通事故よりも、こっちのほうがいいような気がしますね。娘婿との怒りさえ脱力化されるほどの情けなさに義男が見舞われる会話の前提としても。 【義男は、鞠子の遺体が発見された後、ひとり涙を流しながら、鞠子の字体を真似て絵葉書を偽造し、病院の真知子に見せ、「元気で生きているならどこにいてくれても良い」と慰める。山崎努の演技もあるが、家族持ちとして強烈に胸の痛かったシーン。】 これは、いいシーンでしたよね。 病院の廊下での婿との会話と日誌にも綴った真一との場面に並ぶ、さすがの山崎努でした。 (めだか) 山崎努の上手さが際立ってしまっていて。でも、これは、中居正広の無機質な(爬虫類的な?)イメージとも対照になっていたかも。そう演技していたと贔屓目で思いたいところなんですが、実際はどうなんでしょうね(笑)。アイドル演技と評されてるのも眼にしましたが^^; (ヤマ) 僕は演技者として、十分評価に値すると思いましたよ。少なくとも、監督の意図を十分理解したうえで演技に臨んでいたように思います。あのくらいにやってくれれば、監督としても文句はないはずですよ。演技者として、山崎努に拮抗しようなんてのは、おこがましいし、そんなことは、中居も考えてないでしょうし、監督も期待してないでしょう(笑)。 (めだか) まさか、ここで手紙の偽造が使われるとは思いませんでした。犯人側の手紙の偽造と使い方は同じだけれど、目的が大違い。面白い対比でした。原作では、誘拐した女性の家族にピースが偽の手紙を出して、誘拐されていないように偽装するのです。 (ヤマ) おおー、これもそういう元ネタがあったわけですか。おそるべし、森田!ですなー。 (めだか) 映画でも、浩美の最初の殺人の時に、そう処理したことを浩美に話していたように記憶していました。 (ヤマ) そうでしたか、僕は、それは忘れちゃってます(笑)。 それにしても、原作との比較をしていただいたおかげで、映画から受け取っていた以上の評価を森田芳光にしたくなりました(笑)。 (めだか) ここはやっぱり是非、してあげてくださーい。ちょっと、世間の評価は厳しすぎます(笑)。独自の意図があることが明らかになれば、たとえ受け取ることはできなくても、評価できますよね。 (ヤマ) そうです、そうです。 (めだか) でも、あの映画を見た時の私の森田監督への感想は「置いていかないで〜!(悲鳴)」でした(笑)。 ヤマ様の日誌を読んでようやく影が見えた気分です。 (ヤマ) 僕のほうこそ、おかげさまでより鮮明になってきましたよ。ありがとうございました。 【ここまでのこういった違いなんて、映画として全く問題なしに私は面白く見ていた。】 拝見して、僕はむしろ森田監督の確たる意図に感心しましたよ。 よいことを教えていただきました。すごく整理されてて大変参考になりました。 【難を言うなら、被害者側から加害者側に話を移すときが、唐突で分かりにくかったことと、やたらとネット関連の画像が出てくること。】 こういう面は確かにありましたが、僕はさほど気になりませんでした。 【途中でいきなりYahoo!Japanのロゴがスクリーンに出て、掲示板の書き込みと思しきテキストが、脈絡なく出てきたのは(?_?)となった。あの画面は、全く意味不明(だいたいとっさに写された内容を読みきれない)。こういう形で使うっていうのはやっぱりデジタルイメージに拘ったのかな?】 そうだと思いますよ。 それによって現代を端的に視覚的に表したんでしょう。 【ニュースシーンを何度も繰り返したり、画面にノイズを走らせたり。私的には、映画の雰囲気を作るというより、話に入り込むのに邪魔な、煩わしく不快に感じられるようなカメラワークも多くてイライラさせられた。でも、ここに凝るところがきっと森田芳光監督の撮り方なんだろうなあ^^;】 きっとそうだと思います。 加えて、ニュースシーンについては、デジタルや現代っていうことより、マス・メディアの問題を強調したかったんでしょうね。ニューヨークの同時多発テロの時にも、湾岸戦争の時にも言及されたテレビが繰り返し流す映像の作り出すバーチャルな現実感覚ってとこ。 【でも、これに違和感があったのには多分他にも理由がある。それは有馬家や前畑家を扱っているときの、落ち着いた昭和時代を思わせる背景や雰囲気とのギャップが大きいからなのだ。】 これはもう間違いなく、対照的に際立たせてましたよね。 良くも悪くも、随所を対立構造で構築した造形的な作品ですからね。 (めだか) 滋子の夫の職業を鉄工所の社員から畳職人に変えているくらいですから。 (ヤマ) 実に周到に一貫してますねー。なんだか嬉しくなってきちゃったなー(笑)。 【この映画はアナログVSデジタルだそうだ(森田監督談)。これがイコール被害者VS加害者という形にもなってる。】 監督自身も明言してるんですね。 もっとも作品があれだけ雄弁に語っていれば、明らかでもありますが(笑)。 で、僕は、被害者VS加害者というのに加えて、殺しに向かう心VS救いに向かう心というのもあったと思います。 (めだか) そこが手紙の偽造で表されたものですね。 (ヤマ) 高井の行動もそうですよね。彼も有馬側の小結ですから(笑)。 【このカメラワークの凝りに、なんとなく『黒い家』を思い出して、いや〜な感じはしたのだ。】 この『黒い家』は未見なんです(とほほ)。 (めだか) こちらも世間では不評です。でも、私は買ってます(笑)。どうやら、私は単に森田監督が贔屓なだけかもしれませんね^^; |
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by ヤマ 交換メールより[(その2)に続く] |
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