『にごりえ』
監督 今井 正


 県立文学館が地元の自主上映団体と連携して、日本文学を原作とする映画の上映会に取り組み始めた。今年は試行で、反響を見ながら、来年の事業予算化としていくのかを決めるのだそうだ。それぞれの持てる強みを効果的に発揮できる官民協働のソフト事業として、僕の寄せる期待は大きく、地域で活動する者の励みにもなる形で定着することを願っている。

 第1弾として上映されたのは、樋口一葉の代表的短編「十三夜」「大つごもり」「にごりえ」を原作とするオムニバス映画『にごりえ』だ。1953年作品だから、50年前の映画ということになる。僕は未見の作品だったが、その年のキネ旬第1位・ブルーリボン賞第1位・毎日映画賞の作品賞並びに監督賞の受賞作品ということだ。圧倒的評価を得た作品ということになるわけだが、その年のキネ旬の第2位が小津の『東京物語』、第3位が溝口の『雨月物語』だと聞くと、それらを抑えて高い評価を得た作品を今にして観る機会を得られたことがやたらと嬉しくなる。

 当日は今井監督の未亡人ツヤさんも来館され、元気な姿を見せてくれるとともに、亡き今井監督が、自分の映画は試写会までは仕方なく観るものの、公開されても一切観ようとはしない人だったとか、『にごりえ』撮影時のことについて監督が生前語っていた思い出を紹介してくれたりしていた。

 50年前の作品だからか、会場の音響システムがお粗末だったからか、音声が非常に聞き取りにくくて、なんともツライ上映会だったが、それでも相当の作品であることは容易に伝わってきた。どの話も経済的苦境に生きる辛さが痛切な物語ばかりなのに、俳優の存在感がある種の輝きをもって捉えられている。とりわけ女優の魅力は、圧倒的だ。映画としての緊密感も一話二話三話と進むに従って濃密さを増していく。今の時代には、ほとんど実感を伴って受け取れないほどに貧富や男女の差が当然のことのように前提とされている社会において、断念とも言えない、身に備わった諦観とともに精一杯生きている人としての姿が、そのような状況が想像もできないなかに生きている自分が観ても、存在感として力のある普遍性を獲得している。

 第二話「大つごもり」の女主人(長岡輝子)から踏みにじられることに耐えつつ、育ての親たる叔父(中村伸郎)・叔母(荒木道子)との約束を果たすために、小さな胸の内の葛藤に一人苦しむみね(久我美子)の不安や懼れと気丈さのせめぎ合う思いつめた表情のいじらしい勁さは忘れがたく、併せてそれが、最後に奉公先の放蕩息子(仲谷昇)の書き置きによって、自分の盗みが露見しなかったことに驚くとともに、ふっと弛んだときの対照が鮮やかだった。この放蕩息子の書き置きが、みねの盗みを知っておこなわれたものか、けなげなみねにもたらされた天の恵みとして偶然に起こったものなのか、観る側の想像に委ねられているところにも味がある。

 第三話「にごりえ」では、お力(淡島千景)の凛とした艶っぽさに驚いた。後年の気っ風のよさが際立つ印象からすると、意外なほどの柔らかみが備わっていて、実に美しい。結城(山村聡)との駆け引きのなかで次第に惹かれていく風情や二人の会話そのものに窺われる遊興の粋さ加減が心憎い。だが、最も印象深かったのは、お力に溺れて身上をつぶした源七(宮口精二)だった。自身のふがいなさと惨めさに打ちひしがれ、家族に対する後ろめたさを滲ませて、妻(杉村春子)からの生活再建への鼓舞とお力にまつわるけん責に耐えながらも、次第に追いつめられていく姿が痛切だった。そして、心の内の微妙な混乱とせめぎ合いをそれ以上に見事に演じていたのが杉村春子だった。過去は過去として割り切り、息子(松山省二)のためにも生活再建に前向きに取り組もうとしながらも、未だお力に残す未練が透けて見える源七に刺激され、割り切らせてくれない夫に対して不毛と知りつつなじらないではいられない姿に、女としての悔しさ、情けなさが見事に表れていた。結局それが夫をさらに追いつめていくことになるわけで、夫も妻もなんとも哀れだ。最後に無理心中に引きずり込まれたお力は、酌婦として特段の非道を働いたわけではないけれど、結城との関係との対照によって、どこかしら因果応報的なニュアンスを帯びているような気がした。自身の責に基づくものではないながら、ある種の運命として、その因果を引き受けさせられるという、まさに運命の哀しさが浮かんでくる。そのような運命観で人の生を眺める視点からすれば、第二話「大つごもり」でみねに訪れた幸運は、やはり天の恵みだったのかもしれない。
by ヤマ

'02. 4. 7. 県立文学館



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