『まぶだち』をめぐる往復書簡及び掲示板編集採録
多足の思考回路」:めだかさん
ヤマ(管理人)


 
・・・まずはメールにて・・・

(めだか)
 『まぶだち』を見た後、ヤマ様の日誌と推薦のサイトを拝読しました。


(ヤマ)
 ありがとうございます。


(めだか)
 『模倣犯』のコピーに「なぜ人を殺してはいけないの?」というのがありましたでしょう。何故かなあと考えていましたけれど、あの映画では私には答えが出なかったです。でも、先日、ヤマ様からお勧めいただいた『まぶだち』を見てなんとなく自分の答えが見えたような気がしました。
 しんゆり映画祭というのが近くであって、そこで上映がありましたので時間を作って見てきました。痛い映画でした。あの中学生は、私の中学時代とマトモにかぶりました。


(ヤマ)
 誰と最もかぶったんでしょう?
 また、何となく見えたというめだかさんの答にもとても心惹かれますね。アップを楽しみに待ってたんだけど、相当格闘しているみたいですね(笑)。同じくしんゆり映画祭で御覧になった『鬼が来た』と『折り梅』はアップされたのにね〜。
 でも、「この3本の感想を記録しておかないようじゃ、このサイトをやってる私にとっての意味が無くなる!」というほどの3本のうちの1本をお薦めして差し上げられたのは、ちょっと得意な気持ちにもなれる嬉しい気分でしたよ。


(めだか)
 この映画を教えてくださったヤマ様に心から感謝します。ありがとうございました。あんまり、邦画の子どもの映画は自分では見ないと思うので、きっと教えていただかなかったら見逃していたでしょうね。でも、これは見なかったら、後悔する映画ですね。


(ヤマ)
 そーでしょう。えへ、ほんとに嬉しいな(微笑)。


(めだか)
 ところで、日誌に添えてある推薦テクストでは、サダトモが最後に先生についた嘘をどう解釈するかというのが皆さん、意見が分かれていますね。私もまた別の見方をしています。


(ヤマ)
 別の観方ですって? これがまた楽しみなんですよ、実は(笑)。


(めだか)
 それで誰と最もかぶったのかっていうと、私がかぶったのは仁村テツヤでしたね。


(ヤマ)
 ちょうど語り手ですから、よけいに身に沁みるところがあったでしょうね。


(めだか)
 最初のほうで、サダトモを偉そうでいつも指図しているのを嫌だと思っているのに離れられない、って言ってるでしょ。あれにまず共感しました。私の小学、中学時代って、そんなことが多かったなあ。
 適当に優等生だけれど突出した人間ではなくて、自己嫌悪しながらもそういうクラスで飛び出てる子の後を追う形になってしまってる。特に小学生の頃がそうでした。


(ヤマ)
 僕には、あまりない傾向なんですが、めだかさんにとってのサダトモのような存在がおいでたってことですね。それは、興味深いところです。やはりある種の憧れなんですかねー。


(めだか)
 万引きしても、一番最初に盗った物に飽きて、さっさと片付けちゃうでしょ。あれも経験がありますね(笑)。


(ヤマ)
 共同参加すること自体に意味があるのであって、盗品に対する興味は、ほとんどないんでしょーね。


・・・何日かたち、めだかさんの『まぶだち』がアップされた。
そして、掲示板『水の中でお話しましょ♪』に書き込みを。・・・



(ヤマ)
 遅くなりましたが、『まぶだち』拝読しました。
 僕には十代の時分に、親友、心友、真友などと書き並べてみて、「しんゆう」について思いを巡らせた記憶があります。何かを共有すること、そしてそれに秘密の香りが伴っていること、とりあえずはそういうことによって特別な友達関係であることの気分は味わえるんですよね。でも、本当の部分は、そこから始まるに過ぎないわけで、一番のポイントは、彼ら三人がそうだったように、心の深いところで存在感として宿り、自身の人間形成に影響を受けてしまうような交友関係でしょうね。
 周二の自死にまつわるサダトモの嘘についてのもう一つのご見解、興味深く拝見しました。
 周二の死について、「それはどんな選択であれ、誰に選択を強制されたものでも頼ったのでもない、周二自身の選んだことだった」という観方は、僕も同感ですね。でも、まぶだち仲間のサダトモにそれを周二の自立という形で対象化して観る視線があったとまではあまり思いたくないですね。僕も日誌に綴ったように、サダトモは小林に、自分の中にある何かと通じる部分をおぼろげに感じ取っていたように思います。
 でもだからといって、「周二の死ぬ瞬間の自立を否定することになる」とかいうことで小林先生に嘘をついたと観てしまうと、周二の自立を巡って、サダトモが周二に対する評価者の視線で小林と張り合った格好にもなってしまうように感じられて、ちょっと淋しい気がしてきちゃいますね。だからこそ、めだかさんは、「無意識に」とお書きだし、「小林や学校のせいにすることは周二の死ぬ瞬間の自立を否定することになるだろう。」という形で表しておいでなんでしょうね。ここのところの「ことになる」って部分、大事ですね。


(めだか)
 あちゃ〜(>_<)「まぶだち」について足を運ばせてしまってすみません。
 メールしようと思いながら延び延びになってました。


(ヤマ)
 そうでしたか。僕のほうが申し訳なく思っていたんですけどね(笑)。映画を薦めたの僕だったし。


(めだか)
 メールしようとはいうものの、これってどこから話を切り出して良いのか困ってまして(笑)、ヤマさまから切り出して下さって楽になりました(^^;ゞ


(ヤマ)
 それならよかったな〜。


(めだか)
 この続き、もしネタバレが宜しければ、ヤマさまのところでさせていただいていいでしょうか? ここは「まぶだち」をご覧になっておいでの方はいらっしゃらないと思いますので、そちらでジックリお付き合いをお願いいたします(笑)。
 これ、メール→ここ→ヤマさまのとこ、と随分ゆっくりな流れですね^^;


・・・そして、掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』へ・・・


(めだか)
 ヤマさま、こんにちは。今日は「まぶだち」についてです。


(ヤマ)
 ようこそ、めだかさん。「めだか」とおっしゃりながら、そちらの掲示板は、深海に潜んでますものね(笑)、メールではなく、こちらに河岸を変えることにされましたか(笑)。


(めだか)
 めだかは水面にいるものですけどね(笑)。
 やっぱりメールのほうがゆっくり時間を取れたかなと早くもちょっと思ってますm(__;m
 でも、深海というほどのものではなくて、川底の水草の陰程度ですよぅ^^;


(ヤマ)
 いいですよ、メールに変えていただいても。返信に気疲れされるようでしたら、いけませんものね。確かに掲示板は日が経てば、下のほうに流れて行っちゃいますからね(笑)。


(めだか)
 流れてしまうのもありますけれど、掲示板って難しいです^^; つい要らぬことまで書いちゃったり、書き忘れたりするのが、オープンですものね。


(ヤマ)
 僕もしょっちゅうです(笑)。不用意な言葉の使い方しちゃうことも多くて(苦笑)。


(めだか)
 それはともかく、『まぶだち』、お薦め下さいまして本当にありがとうございました(^^)


(ヤマ)
 サダトモの「嘘」をどうご覧になるのか、僕も興味ありましたし(笑)。


*昔を思い出しつつ、“まぶだち”とは?

(めだか)
 “まぶだち”っていうのは本当は“真友”って書くのが言葉の意味としてはあってる感じですよね。例えそばに居なくても、もう亡くなっている友でも片思いでも、自分にとってそう思っているならそれが“しんゆう”というもんなんだと思うんですが、そう考えてない人には、この映画のタイトルはピンとこないかも…と思いました。


(ヤマ)
 同感ですね。“しんゆう”というのは、自分の心象風景のなかに占める存在感の問題なんですよ。


(めだか)
 私も友という意味について散々悩んで、ようやく吹っ切れたのが社会人になってから…というから遅いですよねえ。私ね、小学生時代に虐めの経験あるもので(笑)、中学の頃には友達というものにかなり幻滅していたのです。
 「まぶだち」を観始めた時は、今頃、こんな教師や生徒の学校あるのかな?と不思議に思いながら見ていたのですが、自分の学生時代と重なって、いつの間にか引き込まれていました。最後のナレーションで合点がいきましたけれど。
 ヤマさまの中学時代と比べてはどうでしたでしょう?(笑)


(ヤマ)
 作り手の世代的なものからは、きっとめだかさんが一番近いんでしょうね。


(めだか)
 そうですね。実際は、私の場合は、中学時代というよりも小学校高学年時代に近かったかもしれません。そういえば、中学では生活日誌ってなかったですけれど、小学校では日記というものがありましたよ。あ、またあの頃のことを思い出したらだんだん腹が立ってきました(笑)。


(ヤマ)
 僕の小学校では、そんなもんなかったですが、僕は自分の小学時分を思い起こすと、今ならきっと問題児として弾かれてしまっただろうなって思いますよ(笑)。先生に対して、とても挑発的な生意気な奴でしたから。


(めだか)
 今思い出すと、かなり理不尽なことをさせられたりしましたが、あの頃って同級生には仕返ししたりすることを考えても、教師(大人)には絶対服従…というか、意識して反抗することは考えられませんでした。


(ヤマ)
 僕らはこれをすることで逆に、生徒同士の連帯を得ていたというか(笑)。


(めだか)
 男子生徒はそういう連帯があったかもしれません。女子は、どうかなあ。まとまるのが下手なところがあるかも(笑)。


(ヤマ)
 僕らは万引きとかの共犯意識ではなく、先生に反抗するってとこでの共犯連帯感でしたが(笑)、確かに女子は加わってませんでしたねー。


(めだか)
 それにしても、思い出すと悔しいなあ。何か言われたら黙り込むか、ボイコットするくらいしかできなかったです。
 だから、サダトモたちの姿ってほんとにダブりました。


(ヤマ)
 僕の中学校時代と言っても、もちろん学校によってとか、都会と田舎ではとか、で随分違ってくるのでしょうが、僕の記憶に残っている感覚では、もっと大らかでのんびりした感じだったように思いますね。


(めだか)
 「何かの共有とそこに伴う秘密の香りによって、特別な友達関係の気分を味わう」のは、あくまで“気分”というのが肝心ですね(笑)。それって、実は自己完結しちゃってる感情であって、本当は関係ではないということをどういう過程を経て知っていくか。
 それを関係にまでどう構築していくかっていうのが大人になる過程なのでしょうけれど…。


(ヤマ)
 恋愛関係におけるセックスも同じような側面を持っていますよね。


(めだか)
 あれ? なんだか、これって過去の経験談のようですね(笑)。でも、恋愛となると関係構築するということは、結婚へまっしぐらという気もしますが(笑)。


(ヤマ)
 それも確かに一つの方法ではあるのでしょうが、僕がイメージしたのは基本的には形のことではなく、相手に対する関心の持ちようや関与の仕方ってことで…、


(めだか)
 私は、恋愛映画には興味が少ないのですが、これを伺ったら、こういう視点で何か見てみたくなりましたね。


(ヤマ)
 当然ながら、結婚をしないままでの恋人関係というのもアリだと思ってますよ。ただ恋人関係だって友人関係だって肉体関係や共犯意識に頼って、気分のうえに胡座をかいていると足下を掬われてしまうってことです(笑)。
 とりあえずの気分は、何かの共有とそこに伴う秘密の香りで得られますが、そのことが恋愛関係そのものではないですから、そこから得られる“気分”だけに頼って関係構築を怠っていると、不本意な結果になったりもしますね。友人関係も同じようなものではないでしょうかね。


(めだか)
 周二たちには、関係にまで構築していく時間がなかったのが、見てて辛かったです。
 「周二の選択を彼の自立という形で対象化して観る視線が、まぶだち仲間のサダトモにあったとまではあまり思いたくない」とのことですが、私の“サダトモの嘘”は、苦しいです〜^^;


(ヤマ)
 まだテクスト拝借は済ませてませんが、「無意識に、周二の選択の意思を尊重したかったのではないだろうか」との解釈が苦しいとは全然思いませんけど(笑)。


(めだか)
 “無意識に”というのが自分でも苦しい解釈だなあ・・・と(苦笑)。
 私には、サダトモに教師への意地も見えなかったし、同情とも見えなかったし。でも、ヤマさまの言うとおり、同じ位置に立つサダトモに周二を客観的に観る目があったというのでは、あまりに冷静ですよね。


(ヤマ)
 そうですよね。もっと動揺し、動転してるはずで、誰がどうということ以上に、周二が死んでしまったことが悔しくて仕方がなかったろうと思いますね。


(めだか)
 彼自身が“自立”という意識がないのに、そこから他人を視る視線があるとは、私にも思えません。それを言うなら私もサダトモと同じで、これは映画の感想の自問自答だから“自立”という言葉も使えるのですけれど(笑)。


(ヤマ)
 めだかさんの「小林や学校のせいにすることは周二の死ぬ瞬間の自立を否定することになるだろう。」との「ことになる」との書き方は、まさにそういう主旨なんでしょうね。


*小林先生

(めだか)
 大人は大抵、自分が大人だというだけで自立してると思い込んでいるけれど、本当は大人も自立してなんかいない人がほとんどで…。自立してないのに自立してるという自負から教育しようとしてる大人が小林先生なのかな…と思いました。


(ヤマ)
 自負と言うよりも虚勢でしょうかね。自立の自負であれば、闇雲に追い込むようなことはしないでしょうから。


(めだか)
 本人は追い込んでいるという自覚はなかったのでしょう。自覚があれば“虐め”ですね。でも、今から考えるとあの頃、意識して生徒虐めしてたと思われる教師は、結構いましたよ。
 「自分が強い人は他人にも厳しい」って言うのを聞いたことがあるんですが、それは嘘ですね(笑)。弱い人ほど自分を見ることを避けるから他人に厳しい。それが小林先生だったのかもしれませんね。


(ヤマ)
 それはそうなんでしょうねぇ。ただ、そもそも人が人に対して教育的立場でもって臨むことっていうこと自体が、相当に過酷というか、無理難題なんですよね〜。厳しく向かわないことで自分も逃げるって手もあるわけでして、子供に厳しく向かうか否かでもって、何を問えるものでもないという気がします。


(めだか)
 なるほど。よく、「躾」ということについては、周囲の大人(特に親)の厳しさと甘さが論点になりますよね。でも、確かにそれで解決することとは、聞いててちょっと思えないです。


(ヤマ)
 僕自身は、体験的に教護院という非行少年少女に寮生活を強いている施設に勤めたことがあって、教壇に立ったこともあるんですけど、子供を教育しようなどということが、物作りや配達のように約束をもって臨むことが絶望的に困難な大変な仕事であることは身に沁みました(笑)。教えてやろうなどという不遜さでもって臨んでも、何も伝えられないとしたものですよ、少なくとも(笑)。
 しかし、なにをどうしようが、なにがしかの事々は確実に学んでいくのが、これまた子供たちの恐るべきところでして…、


(めだか)
 確かに、子どもは勝手に学びたい人や物を選んで学びますよね(笑)。もっともこれは子どもに限りませんが(笑)。


(ヤマ)
 そうですね、確かに(笑)。人間はってことですな。
 まぁ言わば、具体的な成果を設定せずに、せいぜいで淡い期待とともに誠実に向かうことが、精一杯のできることで、且つそれで全てだという気がしましたね。


(めだか)
 小林先生に自分と同じ匂いをサダトモは嗅ぎ取ってたと私も思います。そこで、張り合ったというよりも、小林先生と違ってサダトモに周二を認めたいという気持ちがあったのならば(…というか、この場合は絶対あった筈ですが)、周二をそっとしておきたいっていう気持ちが起こったんじゃないかな、と思いました。


(ヤマ)
 そうですよね。少なくとも「バカなやつ」呼ばわりだけはされたくなかったでしょうね。


*サダトモの“嘘”と周二の死の理由

(めだか)
 またヤマ様の日誌を拝見したのですけれど(いったい何度目だろう…^^;)、かなりサダトモの“嘘”についてと周二の死の理由の解釈が、私とは異なってますよね(笑)。でも、その中で一致してるのが「周二の死の原因は小林先生ではない」ということではないかと思います。
 そこから思いついたのですが、サダトモもそう思っていたとしたら、サダトモの“嘘”は一見“嘘”であって、実は、彼が小林先生に向けた初めての“本心”という見方ができないかな、と思いました。「足を滑らせた」というのは嘘ですが、この別の嘘によって、本当のことを告げた場合に起こるだろう「小林先生のせい」という誤解は避けているわけですから。


(ヤマ)
 それはそうですね。自殺だとは知られたくないのは、まぎれもなく彼の本心ですからね。
 追いつめられて死に逃げ去った弱虫の周二ではなく、追いつめられたうえでのことではあったかもしれないけど、最後まで何らかの形でケジメをつけようと諦めなかった奴というのが、サダトモにとっての周二なんですよね。
 ただ、最後にそういう形でしかケジメをつけられなかったということなんですが、彼の自殺をそう受け取ってもらえるはずがないから、彼は嘘をついたんだと思います。
 でも、「小林先生のせい」という誤解、ということでは、せいはせいだと思うんですよね、僕。ただ追いつめられて敗北したんじゃなくて、めだかさんのおっしゃるように「選択」したんですよね。でも、それを小林先生流の「評価に値する」ってな視線では見たくもないだろうし、そんなふうに対象化する視線がサダトモにはなかったろうと思うんですよ。


(めだか)
 そうですか。私は小林先生のせいとは思わなかったので(笑)。あれが周二のけじめとも見ていませんでした。


(ヤマ)
 もちろんそういう観方もありでしょうね。


(めだか)
 けじめと見たら、それをつけなければならないという気持ちまで圧力をかけたという責任が小林先生にはありますね。けじめなんてつける必要ないのに…。


(ヤマ)
 そう。必要はないんですよ、別に。
 でも、先生に言われたからっていうことだけでなく、周二は周二になりに、自分の思いとして何らかの形でつけて見せたかったんじゃないかな。人に対して以上に、自分に対しても。
 最後の選択に至るまでに、周二はいろいろな形でトライアルしながらも、結局どれもやり遂げられないで終わってしまう自分が、自分でも情けなく哀しくてしようがなかったと思うんですよね。加トサが名札を持ち込んだからだとは言え、そもそも落としてきたドジは自分がしでかしたことだし、先生の呼び出しに際してはサダトモたちが予行演習までしてくれても、結局あっさりと白状しちゃって、二人に迷惑かけたと思ってるし、それなのに、友達は一向に自分を責めはしない。そういう自分に対して、なんらかのケジメはつけたかったと思うんですよ。男の子としては、なんかワカル気がするんですよねー。
 小林先生としても、途中ではいささか困っていたんじゃないですかねー。どっかで何かでクリアしてくれるだろうと高を括っていたような処があって。ところが水の入ったバケツを持つことにも失敗されちゃって、本当のところは、ちょっと狼狽してたんじゃないのかな。
 でも、ここまでやったからよしって姿勢は、なにがしかの達成を果たさなければ決して与えないのが、小林流の厳しさなんですよね〜。終わらせてやらなかったことにおいて、彼に責任はあるんです、教師ですから。


(めだか)
 これを読んで、映画で私が(・・?と思ったシーンを思い出すことができました。


(ヤマ)
 あ、それは嬉しいな(にこにこ)。


(めだか)
 周二がバケツを落とした時、生徒たちだけでなく先生も驚いたような顔だったので、「どうしてここでそんな表情をするの?」と不思議になったんです。


(ヤマ)
 僕もまさしくその場面で、やっぱり!って思いました(笑)。そこのところが「小林先生にどれだけの自覚があったのか、一概には言えない人物造形をこの映画はしている。」と日誌に綴ったゆえんでもありました。


(めだか)
 だって、周二があのケジメを完遂できないということは予想できるじゃないですか。(バケツを持ち続けるのってキツイですよ。私もやったことあるけど・笑)
 でも、そうか。小林先生は出来ると思っていたのだな^^;、と納得。


*小林先生の狼狽?

(ヤマ)
 それを予想できるとは限らないのが人間の哀しいところで、めだかさんに予想が付くのは、やはり御自身がやったことがあるからなんでしょうね。とりわけ周二のときには、いつ許しが得られるかもわからない状況でっていうわけではなくて、もう少しのところまでは目に見える形で来ていただけに、ここで落とすかよーって驚いたのも仕方がないような気がします。


(めだか)
 「本当のところは、ちょっと狼狽してたんじゃないのかな。」だなんて、あの演技からはありそうで笑ってしまいました。自分ペースを崩された、親近感を持てる小林先生の姿だったのかもしれないですね。


(ヤマ)
 まぁ、親近感は持ちたくもありませんが(笑)、ひたすら追いつめイジメようとしていたわけではなさそうに思いましたね。愛の鞭を装っている彼の厳しさについても、実体はとてもそうとは言えないのに、彼自身は本気でそう思っているのかもって、ありがちな熱血教師の一種かという気もしましたね(笑)。考えようによっては、余計にタチが悪かったりもするんですけどね、それって。


(めだか)
 あの先生、端から見る分にはそんなに嫌いではないので(なんだか可哀想で。自分の周囲にいたら嫌って抵抗しまくりだと思いますけれど^^;)、そういう姿を感じさせてくださったヤマ様に感謝です(笑)。


(ヤマ)
 いえいえ、感謝だなんて、恐縮しちゃいますね(笑)。
 でも、「一概には言えない人物造形」というところに同意していただけたのは、嬉しいですね。僕があの作品を大いに評価している大きなポイントの一つとも言える部分ですから(笑)。


(めだか)
 その後の小林先生の教育方針が気になります。・・・変わらないかな^^;


(ヤマ)
 サダトモの嘘をどう受け取ったかによるでしょうね。どっちの可能性もありそうで、かなり微妙ですね(笑)。少なくとも単に手を滑らせたとは、見るからに思えないノミの一件もありますからね。


(めだか)
 日誌を拝見して思ったのは、サダトモが言った「足を滑らせた」というのは、小林先生への同情でも反発でもなく、「周二の死の原因は小林先生ではない」というのがサダトモにとっての“真実”で、最後に本心を先生にぶつけた姿がこの“嘘”。その場合、その気持ちを呼んだものが、ヤマ様のおっしゃるところの小林先生への共感、という見方もあるなと。
 感想しておいて今更ですが、こっちのほうが自分には納得できる解釈かもしれない、なんて思ってます(笑)。


(ヤマ)
 まぁ「共感」というよりは、相通じるところへの嗅覚といったもので、むしろ嫌悪の対象になりやすいものでしょうが、サダトモは、意識レベルではむしろとっても素直なんですよね。小林先生の言葉には、むしろ他の生徒以上に、そこにあるある種の含蓄をも感じ取れていたんじゃないかという気がします。
 先生を頭から否定することができるほどに、根拠のない優位を自認できるような無邪気な自己肯定感を彼は持ってはいなかったように思いますね。


(めだか)
 サダトモが傲慢なプチ大人だとは絶対に思わないです。


(ヤマ)
 勿論そうですよね。


*サダトモの父親

(めだか)
 私、サダトモの父親ってけっこうイケてると思いました(笑)。でも、どうして「やっぱり殴ることにした」のかしら?


(ヤマ)
 人と人との関係性において、やはり言葉だけでは不足だとの不安は、拭えないものですよね。大事なところでは、身体性をも含めて関わり交わり合わなければって思うのは、何も恋愛に限った話じゃないような気がします。


(めだか)
 父親には殴ったことの是非への疑問があったとしても、あれはサダトモにとってショックなことだったわけですよね。


(ヤマ)
 もちろんそうですよね。


(めだか)
 私は、それを父親への罪悪感と観たのですが。サダトモは父親が好きだったんだろうな、と。その父親の手を上げさせるまでに自分が追い詰めたことへの罪悪感が反省文を書かせる力になったのかもと思いました。


(ヤマ)
 同感ですね。


(めだか)
 あの父親は自分の子どもに対してもちゃんと距離を保ってる、マトモな大人だったと思います(笑)。


(ヤマ)
 そうですね。でも、こうすればこうなる、などという自信や確信をもって臨めないんですよね。あれこれ迷って、やっぱりこうすることにした、とか言って。あのあたりの自信のなさや迷いとともにある誠実さが、役割への誠実ではなく、息子への誠実だと伝わったときに初めて、それが教育的効果を及ぼし得るんでしょうね。
 でも、それって意図して表現できることではないんですよ。役割への誠実さは意図的にでも表現できるものかもしれないけど、それは何の役にも立たないし(笑)。だから、父親って哀しい、と『ロード・オブ・パーディション』みたいな話になっちゃってきましたね(笑)。


(めだか)
 実は、私もその前の教護院の経験の辺りから、なんだか「ロード・トゥ・・・」に通じるものがあるなあと思いながら読んでました(笑)。私も父が他界していますが、まず思い出せるのは何を教えてくれたかではなくて、どういう態度で自分に接してくれたかってことですね。


(ヤマ)
 そうなんですよ。でも、これも決してひとつのパターンじゃなかったですよね。親は親なりにあれこれ考えながら接するものですし、同時に、四六時中それだけのエネルギーと共に臨めるものでもありませんし(笑)。


(めだか)
 接し方が父親自身のためか、自分を思ってかということは、子どもは鋭く見抜くものだと思います。私も自戒して付き合いたいですよ(笑)。といっても、自分の都合で怒っちゃってから「しまった〜!」と謝ることが多いですが^^;


(ヤマ)
 いやぁ〜、後から気づいたりもするもんですし、もちろん見抜いちゃうようなとこもありますけど、子供のほうだってパーフェクトではないわけですよね。自分の子供のときのことを思い起こせば自明のごとく(笑)。ここらあたりの半ば運命的な偶然性にも支配された部分は、人間関係の妙味と言えば妙味ですし、難しさというなら、とてつもない困難さですよね〜。


(めだか)
 思い出すと私の父親もサダトモの父親と一緒で、子どもを殴らない親でした。それが学生時代に一度だけ殴られたことがあるんです。殴られた痛みよりも、殴らせたことが辛くて大泣きしました(笑)。


(ヤマ)
 そういうお父さんが、こともあろうに娘に手を出すとしたら、よほどのことだったんでしょうけど、めだかさんがそのように感じたのであれば、親として誤った選択ではなかったようですね。でも、その案配というのは、やはり「半ば運命的な偶然性にも支配された部分」だという気はしますね。
 めだかさん父娘においては、約束されていた必然だったのかもしれませんけど。


(めだか)
 息子と娘では父親の態度が違ったでしょうけれど、そういった思い出せる自分への態度の記憶の総括で見ると…やっぱり父親の影響って大きい!(プレッシャー<ヤマ様・笑)


(ヤマ)
 娘にとってもそうなんですねー(たはは)。


(めだか)
 あの父の子どもがどうして自分だったんだろう。どうしてこの子どもが私の息子なんだろう。と、めぐり合わせの不思議は考えます(笑)。それを言うなら、どうしてこの男が私の旦那なんだろうというのが最たるものですけれど(爆)。


(ヤマ)
 あ、それは簡単ですよ。自業自得ってことですから(笑)。


(めだか)
 「ロード・トゥ・・・」のあの最後の台詞は、私は凄いと思うんです。父親冥利に尽きる言葉だな、と。でも、私も言えるから、悔しいけれども自分の親に絶対にまだ叶わない(笑)。


(ヤマ)
 やはり大したお父上だったんですねー。それが吉と出るのか凶と出るのかについては、めだかさんの人生が終盤にいたらないと判らないことなんでしょうけどね(笑)。


(めだか)
 それはそうと、加トサの供えたひまわりの花についての評、納得です。観ていて、夏にしろ変わった花を供えるなあ程度にしか観ていなかったんですが、橋に供えられた花との関連には気付きませんでした。


(ヤマ)
 あ、そうですか。どこにも明示はありませんが、僕にはそんなふうに見えました。ありがとうございます。
編集採録 by ヤマ

交換メール及び掲示板より



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―