『千年女優』
監督 今 敏


 不思議な味わいの映画だった。デビュー作『パーフェクトブルー』を観たときに「現代日本の日常に潜む人間疎外と狂気というものをこれほど確かに、スリリングに、強烈な存在感とリアリティでもって描き得た作品は、一般の劇映画を含めてもあまり見当たらない」と感じ、衝撃を受けたのだが、その前作ほどではないにしても、この作品もまた、実に鮮烈な映画だ。前作とも同じように女優をモチーフにして、現実と幻想の越境的な感覚を巧みに操っていた。こういう手法を用いられると、観終えてから振り返る際に、何が現実で、何が幻想なり映画の記憶だったのかを検証してみたくなるのが僕の性向なのだが、不思議とそういう気持ちにならなかった。そこが不思議な味わいと僕の感じた部分だ。ドラマとしての脈絡を読み取ることよりも、映画に描き込まれていた“思いの丈”を感じ取ることの味わいのほうに心惹かれていた。
 その描き込まれた思いが、けっこう錯綜しているところに味があるように思う。大正生まれの大女優千代子がデビュー前の少女時代に出会った、左翼活動家らしき“鍵の君”に抱き続けていた思い、彼女の全盛期に無名のスタッフとして現場にも居合わせ、以後何十年も密かに憧れを寄せ続けていた小さな独立プロの社長の思い、そして、この作品の作り手が寄せている、時代を捉え風靡していた“日本の映画”というものへの思い、それらの思いの丈が、それぞれの場面によって、時に交錯し、時に浮彫りにされ、越境しつつ渾然と“思いの総体”として画面に宿っていたような気がする。そして、長い時を重ねてなお色褪せない思いの丈を保つものが、まさに記憶に他ならないことを、さらには記憶というものがまさに映画のように造形されるものであることを堂々たる筆致で示していたように感じる。そのうえで、思いが記憶を生み記憶が思いを育てる渾然一体感を、視覚的には夢と現実なり、事実と幻想なり、現在と過去なりの混在という形で越境させることによって巧みに表現していた。
 この作品の醍醐味がそういう渾然一体感にこそあれば、観終えた後といえども、それを解体して検証する作業に意欲が湧いてこないのは、むしろ当然のことだと言えるように思う。それは、多分に僕が疑似体験的に彼らの記憶を共有することができたからだろうが、そういう点では、千代子の語る記憶にも、社長の語る記憶にも、映画にまつわるエピソードにも、多少なりとも映画好きで現代史を同時代的に生きてくるか、少し学習していれば、容易に共有できるような“時代の記憶”が巧みに忍び込まされていたことが効果を挙げているように思う。
 そうしたうえで、そのような“思い”も“記憶”も、事実や歴史がそれ自体の力によって残してくれるものではなく、その思いや記憶を必要とする人間が生み出し、継いでいくものであることを語って終幕にしているから、おのずと観る側に対して、「あなたが必要とし、生み継ごうとしている思いと記憶は何ですか」という問い掛けになっていた。きな臭さが漂い始めた御時世だけに、この作品がアクチュアリティをも備えているように思われる部分だ。なかなかたいしたものである。友人のなかには、阪神大震災を問い掛けられたように思ったらしい女性もいた。

推薦テクスト:「多足の思考回路」より
http://www8.ocn.ne.jp/~medaka/diary-chiyoko.html
by ヤマ

'02.12.17. 県民文化ホール・グリーン



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