美術館秋の定期上映会“マシュー・バーニー「クレマスター」フィルム・サイクル”

@『クレマスター1』(Cremaster1)'95    
A『クレマスター2』(Cremaster2)'99    
B『クレマスター3』(Cremaster3)'02    
C『クレマスター4』(Cremaster4)'94    
D『クレマスター5』(Cremaster5)'97    
 県立美術館が土日に上映する話題作品のフィルムチェックとして、前もって観る機会を得た。東京では九月上旬にシネマライズで上映済みのもので、一日八時間あまりもかけての連続上映という強行スケジュールを全席指定で6800円均一となっていたが、高知では二日にわたってというゆとりのなかで、前売なら3000円で全作品の鑑賞ができる。シネマライズでの一週間特別限定公開は、それまで一都市二作品の上映に制限されていたことからは、世界初の全作品一挙上映だったようだ。なるほど三月の愛知芸術文化センターでの上映会は、1&5の二作品であったし、シネマライズの後の東京都写真美術館ホールでの上映は3のみだ。しかも、3のみで前売2500円だったことからすれば、十一月に遅れを取ったとはいえ、破格の上映会であることに間違いなく、高知県立美術館の快挙と言うべき上映企画だ。
 事前にはチラシをほとんど読んでなくて、予備知識もゼロだったが、マシュー・バーニーは、現代アメリカを代表するアーティストなのだそうだ。1967年生まれで、イェール大学にフットボール特待生として入学して、医学と美術を学び、ファッションモデルもしていたというルックスに加え、二十代でヴェネツィア・ビエンナーレ「ヨーロッパ2000」賞('93年)やグッゲンハイム美術館「ヒューゴ・ボス」賞('96年)を受賞し、現代美術界だけでなく、映画・音楽・ファッション界のクリエイターからも絶大な支持を得ているというスーパーヒーローなのだそうだ。しかし、映画を観る前に僕が知っていたのは、チラシやポスターにある幾つかの写真とタイトルである「クレマスター」という言葉が、睾丸を宙吊りにする筋肉を意味する医学用語らしいということだけだった。
 五作品を一挙に観てみて、最も面白かったのが1、出来映えが一番いいように思うのが5だった。五作品ともに共通して感じたのが、強烈で魅力的なイメージも豊富に登場する代わりに、全般的に編集のリズムやカメラの動きが緩慢な気がしてならないことだった。だが、アーティスティックにデコレイトした下品さが妙に愉快でもあり、作品鑑賞は1から順番に観たけれど、制作年次で振り返ってみると、そこに一つの流れが見えてくるようにも感じた。

 第1作の『クレマスター4』というのは、けっこう軽い乗りで作ったオチ話だろうという気がする。1の次に短い上映時間である42分でさえ、いささか引っ張り過ぎだと思えるほどに、マシュー・バーニー扮する牧神が産道を連想させる地中のトンネルを抜けるイメージと“タマが縮み上がる”ということではこれに勝るものはなかろうと思えるほどの猛烈なスピードで疾走するサイドカー付きバイクレースのドライバーのスーツから、縮み上がった睾丸ともおぼしきタマが零れ出て、ふらふら動いていくイメージが並行して延々と続く。確かに縮み上がりはするのだろうが、なぜこれほどまで延々と続けるのかと訝しんでいると、最後にこのサイドカー付きバイクそのものが睾丸のアナロジーでしたというオチが来る。ある意味、他愛ない話なのだが、それに見合わない仕掛けの凄さが妙に可笑しい。派手な空撮や凝ったメイク、粘液のトンネルなど呆気にとられてしまった。

 第2作の『クレマスター1』になると、さらに仕掛けが派手になる。アメリカン・フットボールの巨大なスタジアムに二隻の飛行船が浮き、フィールドカラーの青・ダンサーのドレスの白・二層笠スカートの裏地の赤というトリコロールが鮮やかな形でマス・ゲームのようなダンスが繰り広げられる。これがハリウッドのクラシカルなミュージカル仕立ての音楽と笑顔で演じられているのだが、その一方で飛行船のなかでは、それこそ逆さになったクレマスターを思わせるようなオブジェの周囲に葡萄の実をふんだんに盛った楕円形のテーブルを中央に囲んで、四人の女性が小窓からスタジアムを覗いているという奇妙なイメージが並行して描かれる。白いクロスに覆われたそのテーブルの下にも女性が潜んでいて、彼女が窮屈そうに身を屈めて内部で蠢き始めることで胎児を連想させるとともにテーブルに子宮のイメージが宿り始めると、先程まで睾丸とクレマスターを思わせていたオブジェが、実は卵巣と卵管だったことに気がつくようになる。そして、子宮たるテーブルが葡萄の実を内側に取り込み始めると、飛行船からオブジェやテーブルといった楕円形のアナロジーに過ぎなかった葡萄の実が精虫のように思えてき、相変わらず優雅にダンスを繰り広げているスタジアムの外観的な女性イメージと体内的な女性イメージというものを対照しつつ受け取るようになる。
 ところが、テーブルの下に潜んでいる女性が、取り込んだ葡萄の実をさまざまに並べる形をなぞるようにして、マス・ゲームのダンスが動き回り始める姿が次第に受精卵の細胞分裂のように感じられるようになってくると、外観と体内の対照が壊れ始める。そして、外観と思っていた飛行船の外の世界が大きな体内に見え始めてきたところで、巨大な二隻の飛行船がフットボールのゴールポストに差し掛かり、まさしく卵巣と卵管と化するとともにスタジアム全体が巨大な子宮に変わって映画が終わる。これは女性の生殖のイメージを映像化した作品だったわけだ。
 マス・ゲームの踊りのように連続するイメージ展開の変容とその境界の曖昧さがスリリングで大いに楽しんでいたのだが、観終えてから、なぜクラシカルなハリウッド・ミュージカル仕立てを強調していたのだろうと考えていたら、ふと女性の生殖イメージというのは、クラシカルなハリウッド映画で極端に強調されていた女性のセクシュアリティとジェンダーの陰で、大概の場合すっぽりと敢えて覆い隠されていた部分だったことに気がついた。昔のハリウッド映画は、母性を切り離した形での“女”をひたすら描いていたように思う。欲望と保護の対象としての、母未満の女性にセクシュアルなイメージは必須である一方で、性的欲望を疎外しかねない側面を持つ生殖イメージは、タブーだったのかもしれない。そこのところを逆手に突いていたようにも思う。

 イメージ展開の変容をクレマスター的に追求して成功したのが1ならば、物語性をクレマスター的に追求してピークを示したのが『クレマスター5』だという気がする。アーティスティックなビジュアル面では、1のシンプルな象徴性よりも豪華で刺激的な文学性や歴史性を重視していたように思うが、オペラという総合芸術の華とも言うべきモチーフを得て、堂々たるアート・ムービーとして結実させており、美術や音楽、メイクなどの造形が観応えがあった。
 ここまでの三作品は、すべて一時間に満たない上映時間だったが、これ以降は、長くなるとともに作品の魅力が減退していったように思う。『クレマスター2』は、僕自身は二つ目に観た作品だったが、五作品を観終えて振り返ってみると、1と5のドッキングを図って失敗に終わった作品だという気がした。唯一セリフのある作品ながら、字幕なしだったので、序盤の会話に出てきたチェーンとかロープ、終盤のフーディーニーくらいしか耳に残らず、状況が判らなかったということもあるかもしれない。だが、そういうこと以上に、5の物語性がうまく生きていたのは、歌劇スタイルを活用していたからこそで、そのおかげで象徴性と物語性の融合が果せていたのだろう。けっしてセリフ入りのドラマ仕立てが物語性を高めるものでもないわけだ。
 5でマシュー・バーニーが扮していたハリー・フーディーニーが続けて取り上げられていたが、エンドクレジットから、2では作家ノーマン・メイラーが演じていたことに気づいていた。フーディーニーは、希代のマジシャンとして著明な人物ではあるが、アメリカではどのくらいの存在なのだろう。僕が初めて名を記憶したのは中学の英語の教科書で、芸人が扱われていることに驚いたからだったが、その後、'83年に観て印象深かった『ラグ・タイム』(ミロシュ・フォアマン監督)で見掛けた覚えがあり、最近では去年観た『ソードフィッシュ』にも出てきていた。『ラグ・タイム』もまたノーマン・メイラーの出演した映画なのだが、何か関係があるのだろうかとも思ったが、チラシによれば、2はフーディーニー以上に '77年に自ら望んで死刑執行を受けた死刑囚ゲイリー・ギルモアの物語だとのことで、ノーマン・メイラーはその事件を描いた『死刑執行人の歌』の著者なのだそうだ。しかし、そもそも僕はギルモアについて記憶がなかったから、解せないのも道理ということかもしれない。
 1に特長的だったイメージ展開の誘発性の継承という点で観れば、僕には行為を抜いた生殖そのものが1のイメージで、2では注入のイメージが最初はベースにあったように感じる。それは、車へのガソリン給油の捉え方であったり、音楽の激しいリズムの反復性であったり、あるいは今年の二月に映画でもライブでも鑑賞した『テルミン』のギュ〜ンと差し込んでくるような音の響きのイメージであったり、スカルプチュアといえども余りにも直截な、交接する局部の映像だったりしたのだが、給油スタンドを挟んで二台の車を連結させた映像のイメージあたりから僕の波長とは合わなくなっていった。確かに刺激的で魅力的な映像が散見されるのだけれど、編集リズムがなんとも緩慢で、おそらくはそれをも以て意図的なリズムとしてもいるのだろうけれど、緩慢なカメラの寄りと引きばかりをメリハリなく延々と繰り返したり、大仰な仕掛けや空撮が頻出するだけでは、映像が間延びしてしまって一時間を超える長編映画はツライという気がする。

 1と5の融合がすっきり巧くいかなかった分、時間を延ばして足掻いていたのが2だとすると、『クレマスター3』が三時間を越える長編になっているのは、まさしくそれに見合うような足掻きの結果かもしれないと思わせる出来映えだと感じた。凶器のようにも見える尖塔を持つビル(ウィリアム・ヴァン・アレン設計のクライスラー ビル)での暴力と破壊のイメージが前半で、後半が螺旋構造を持つ美術館(フランク・ロイド・ライト設計のグッゲンハイム ミュージアム)での創造的な混在と変容のイメージだ。そして、それが対になっていると思われるのだが、どうして三時間も要するのかが納得しがたい。1で印象的だったマスゲーム趣味は、2ではロデオがらみで馬によるものが映し出されていたのだが、3では自動車によるクラッシュ・ゲームになって強調されているように感じたものの、二番煎じ的な印象は拭えない気がする。グロテスクな描写については、五作品中で最も強烈であったし、両足を膝下から失くしている女性のミステリアスなイメージは強烈だったが、それでほぼ全てであったような印象しか残ってない。彼女は、エミー・マランスという名前で、モデルとしてもアスリートとしても活躍しているのだそうだが、圧倒的な存在感だった。
 しかし、シリーズの最後に作られた作品として、他の作品を偲ばせる要素をいろいろちりばめながらも、集大成というよりは、むしろ散漫な印象が残っている。初期の作品群において鮮明で捉えやすくもあった“クレマスター”的なイメージが、三時間の作品の全体像としてはあまりしっくりとはこない形になって、何だかやけに“アートムービー”を意識した、勿体振った映画になっていたような気がする。1と5で確立したのであろう注目と評価に対して、守勢に回ったようなところもあるのかもしれない。5がちょうどマシュー・バーニー三十歳のときの作品となっているから、それ以降の作品が二十代のときの勢いやエネルギーを失っていても、格別珍しい話ではなく、むしろ一見したところ特異さを特長にしているようにも見える彼の作品の背後に感じられるまっとうさのようなものを問わず語りに物語っていると思えたりもした。

参照サイト:「高知県立美術館公式サイト」より
http://www2.net-kochi.gr.jp/~kenbunka/museum/cremaster1/cre_film.html

by ヤマ

'02.11.20. 県立美術館ホール



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