『ソードフィッシュ』(Swordfish)
監督 ドミニク・セナ


 あのとってつけたようなラストは一体何だったんだろう。むろん狂信的で支持できるものではなかったにしても、一応は大義としていたものがフェイクでなかったとしたら、あの米国版アルカイダのような非政府組織を何のために壊滅させる必要が、ガブリエル(ジョン・トラボルタ) にあったというのだろうか。ジンジャー(ハル・ベリー)と二人で95億ドルをまんまとせしめたうえで、自分の存在を消すために、あの陽道作戦が必要だったのであって、でなければ、スーパー・ハッカーのスタンリー(ヒュー・ジャックマン)がネット上の侵入でやれると言ってたのだから、そうするのが当たり前だ。あえて観る側にそのことを明かしたうえでの陽動作戦だから、なぜそれが必要だったかは、準備されていた身代わりの死体とも辻褄が合うように、自らの存在を消すため以外のなにものでもない。そこで最後に笑うのが狂信的なアメリカ原理主義者とも言うべき元特殊工作活動員を装った悪党だったにしても、観ていて納得がいくし、むしろある意味で皮肉も利いてくる。

 そのためには、総ての周到で巧妙に仕掛けられたトリックは、一切がフェイクであったとしていて初めて鮮やかに決まるとしたものだ。それが明白なのに、ラストの顛末はそれらを丸ごと壊してしまった。逆に、あのラストさえなかったら、この映画は、登場人物のキャラクターの際立ちにしても、それを見せる手際にしても、序盤で惜し気もなく使った見せ場がけっして尻すぼみになったとは思わせないその後の展開にしても、出来の悪い作品だとは到底思えない。

 ロック世代とおぼしきスタンリーが、ヘッドフォンで音楽を聞きながら、まるで楽器を演奏するようなノリで、その名も重なるキーボードを速打ちし、マルチ・ディスプレイのコンピューターでアタックをかけている場面など、ステージに立つ立たないのオン・オフでその冴えようが極めて対照的なミュージシャンを髣髴させるような対照ぶりを演出していて見事なものだ。派手な爆破シーンや破壊活劇の部分だけで見せるのではなくて、キャラクターの見せ方が巧いところがいい。実在した天才奇術師フーディーニのエピソードを意味ありげに語る場面を待つまでもなく、極悪人マジシャンたるガブリエルに対して、仮出所の日も浅い子煩悩パパのミュージシャンとも言うべきスタンリーが、ともに犯罪者としてのお互いにある種の面目を認めたような笑みを最後に見せるのは、そこに共通するアーティスティックとさえ言える技の冴えがあるからだろう。そういう笑みをきちんと描出できる作り手が、あのとってつけたようなラストで作品がぶち壊しになることに無頓着であろうはずがないという気がする。

 勝手な推測でしかないが、あのラストは、現場の作り手たちにとっては、外圧と言うしかない形で強要されたものだったのではないかという気がする。この作品自体は、例の自爆テロ事件以前に全米公開されている作品だが、イスラムのテロ組織撲滅を口実にして私欲に走って巨万の富を得る主人公という形を嫌った上層部なりスポンサーの横槍があったのではないか。でなければ、あんな御粗末なとってつけたような印象を残す形で作品を壊したりはしないような気がする。振り返ってみれば、あの魚雷攻撃とナレーションがないままに、優雅にクルージングしているだけのラストであれば、実にすっきりと完結し、身代わり死体が本物のガブリエルだったのか、生き残っているのが本物のガブリエルなのかの謎を残したまま、気持ち良く終われる映画になっていたような気がする。陽動作戦の必要性を否定し、逆に矛盾を残すことになるスタンリーの台詞をあえて残したのは、現場の作り手たちのせめてもの抵抗だったような気がした。




推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0111-1swordfish.html#swordfish

推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2001/2001_11_19.html
by ヤマ

'01.11.10. 松竹ピカデリー2



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