『春の日は過ぎゆく』をめぐる BELLET'S MOVIE TALK ひとこと掲示板採録
BELLET'S MOVIE TALK」:belletさん
ヤマ(管理人)


  (ヤマ)
 belletさん、お久しぶりです。
 今回の更新で、例の直リンクに『春の日は過ぎゆく』を拝借しました。


(bellet)
 わお〜(感激)ヤマ様 おお〜ぅ!
 直リンクありがとうございます。嬉しいです。


(ヤマ)
 後に尾を引く映画でした(苦笑)。寡黙な作品なので、観る側によっていろいろイマジネーションを掻き立てられ、解釈も幅広く提起されうる作品だと思うのですが、belletさんも『八月のクリスマス』と通じるところを見て取っておいででしたね。
 「サンウは頭髪から足の指先まで、全身で声を殺して泣いている。かつて長いこと夫の裏切りに苦しんでいたお祖母さんには、全身でそれが分かる。ここにも一人、深く傷ついた人がいた。そうしてもう一方に、このような真心を、平気で裏切ることが出来る、無神経な人がいる。」
 僕はウンスに籠絡されちゃってましたから「平気で」とは思ってないんですけど、このお祖母さんをふっと正気に返した理由を綴っておいでの処には、魂が入ってますね。別段、男に限らずとも、観る側が平常心でいられないような急所を突いてくる作品だったみたいですね。ありがとうございました。


(bellet)
 やっぱりウンスに悩殺されちゃいましたか〜(笑)。友人たちの間でも意見が分かれています。「春の日が過ぎるのを既に知っているウンスだからこその、躊躇や哀しみ」を読み取った人もいたのですが、ヤマさまはそのあたり、どう思われましたか? 
 愛が変わらずに続くことなど信じることができなくなってしまっているから、向こうが永遠の愛などを担保にして結婚を申し出る前に、いつもあらかじめ、するりと逃げ出してしまうのだと? 「今度親に会って」とサンウに言われて、海岸で「やっぱりお前もか」という感じの悲しそうな顔になるシーンなど、そうかな? と思えなくもないのですが・・。 
 私は「お互いを裏切らず、維持する努力ができる二人ならば、春の日が過ぎることはない(もちろんそんなケースは稀にしかないのでしょうが・・)」と考えているので、ちっとも努力しようとしないウンスに対しては手厳しい、あのような感想になってしまいます。  現実認識が甘いかなあーー。ははは(汗)。


(ヤマ)
 彼女に離婚歴があり、「春の日が過ぎゆく」ことをあらかじめ知る女であるがゆえの躊躇や哀しみならば、例の墓の話はしないだろうと思いますね。一緒の墓に入りたいって言ったのは、確かウンスでしたよね。あのとき、彼女は本当にそう思っていたんだろうと思うんですよ。ただし、蓄積疲労で癒しが欲しかった弱った状態の「あのとき」なんですね。
 悲しそうな顔は、既に望むことに対してのズレを感じないではいられない自分に対してのものではなかったのかなっていう気がします。努力を重ねて愛を育み、関係を作り、維持していくことより、そのときどきの自分の気持ちを大事にしないではいられない自分本位というのがよくも悪くもウンスのパーソナリティで、それゆえの輝きもまたあったように思います。だから、自己主張も自己表現も率直におこなえたわけですね。
 ところが、それがサンウに対して、そうは向かえなくなっている自分に気づいたんですよ、きっと。 けれども、今度はウンスがうまく表現できなくなっているために、サンウには解らずに終わっちゃうわけですね。ちょっと皮肉な話で、どこか哀しく切ない気分が残りました。僕には、そんなふうに見えたウンスでしたね。甘いかなー(笑)。


(bellet)
 ヤマさまの目には、ウンスがサンウを本気で好きになってしまっていたのに、それを伝えられなかったと映りましたか? なるほど、それは全く考えてもみませんでした。単に飽きてしまって嫌になってしまっただけかと思ってました。ときどき気紛れに目の前に出現してはサンウを試していたぶっている姿には、嫌な女の典型を見た思いだったのですが。私怨の投影に近いかも。あはは・・。


(ヤマ)
 ウンスを気ままでイヤな女だと観る見方も当然あり得るでしょうね。そういう意味では、僕はイ・ヨンエに悩殺されていたのかも(笑)。
 ただね〜、あんな可愛らしい時期を全身で表現できる女性に心根のイヤな女性はいないだろうって思いが、僕のなかにありますね〜。なんのかんの言っても、女には弱くて甘いっていうよりも、表現っていうものの力は侮れないっていうか、イヤな心根のひとにパーフェクトな可愛らしさは表現できないはずだと(苦笑)。・・・僕も、かなり重症だな(笑)。


(bellet)
 なんだか私信のやりとりみたいになってきましたが、こういうのって楽しいですね。


(ヤマ)
 あ、僕、すぐに悪ノリしちゃうほうですから、立ち入りすぎたら、おたしなめくださいね(笑)。


(bellet)
 男性の同僚の一人は「サンウ羨ましい」説を唱えており、「男だったら誰でも、たとえそれが移り気な人ですぐさま破局になったとしても、あんな可愛らしい女性が自分の方を向いてくれて、ひととき良い思いができるんなら本望だよ。」と言っていました。・・そういうものでしょうか。ウーム(笑)。このあたり、ヤマさまはいかがですか?


(ヤマ)
 同僚男性の説はごもっともな話です(笑)。あとが尾を引いてけっこうツライでしょうけど、それでも尚、やっぱ羨ましいですね(笑)。それだけ二人の接近と充足感の捉えようと描写が絶妙だったんですよ〜。


(bellet)
 むむ、やはりそうなんですか〜。「サンウ羨ましい説」、採用ですね。そのあたりは、性差が働くのか、個人差なのか、わからないのですが、人によって大きくとらえ方が異なるみたいですね。


(ヤマ)
 でも、サンウ羨ましい説というのは、もちろん映画を観ている僕らからであって、既にして彼女と御縁のあったサンウからすれば、「一時いい思いをしたから得した」なんて心境になれるはずありませんよ(笑)。


-----ウンスの取り逃がしとサンウの決別-----------------

(bellet)
 ところで、考えてみたら、『ピアニスト』のエリカとウンスは、全く正反対の極にいる女性という感じですね。二人とも、大切なものを目の前で取り逃がす、という点においては、不思議なことに全く同じですが。


(ヤマ)
 悩殺される可愛らしさの体現ということでは、正反対ですね(笑)。でも、自分でコントロールしようとしてうまくやれないという点では同じかも。ゆだねてみるということに臆病なんですね。


(bellet)
 ウンスはきっと、物心ついたときから望むものが何でも安々と手に入るというタイプだったのではないでしょうか。そのため一見すると能動的な人格に見えますが、本当はとても受動的で恋も人生も成り行きまかせという感じを受けます。


(ヤマ)
 恵まれてきたがゆえの成り行きまかせですか、これはちょっとギクリもの(笑)。ウンスがそうなのかどうかは取り敢えず留保しますけど、そういうことって一般にありがちですよね。それって受動的というよりも高を括っているって感じですね。「人生を舐めてますね」って後輩から言われたことのある僕には、ちょっと耳の痛い言葉です(苦笑)。


(bellet)
 サンウの決別は、「負け惜しみ」や「諦め」とは少し違って、主体的な失恋というか、決然と去る「選択」だと思いました。


(ヤマ)
 これは全く同感ですね。しかも、ある種の克己心とともに選択されたものですよ。そこが『八月のクリスマス』にも通じるところだと僕も思っています。


(bellet)
 サンウが桜の下でウンスと別れたときは、怒りとともに心から決別していて、「一時いい思いをしたから得した。」とは全く思っていないと、私なんかは考えてしまいます。軽い口調で「今日一日、一緒にいよ〜か!」と言われても、「真心のこもっていない一日なんか欲しくない。」とサンウは感じただろうと思うのですが・・。甘い?


(ヤマ)
 サンウの心情としての「真心のこもっていない一日なんか欲しくない」ってのは、口にするなら、そういうふうに言うしかないだろうけど、心境的には彼のマジメで純な性格からして、僕の日誌にも綴ったように「拒みたくて拒んだというよりも、拒まざるを得なかったのだろう。その軽い言葉をもってウンスを許容しては、彼女をダメにしてしまうし、自分もダメになるという思いが働いたかもしれない」っていうふうに思ってます。
 芯から惚れちゃうと、やっぱり、どういう不満条件が伴っていても、100%欲しくないなんて思えるはずはないような気がするんですよね〜(苦笑)。


(bellet)
 そうか、なるほど〜。
 でも、芯から惚れてしまうからこそ、一度裏切られるともう、未来永劫、心にぽっかり穴が開いてしまうのはないかと思うのですよ。逆にそのほかの条件は、どんなことでも飲めると思うんですが、裏切りだけは・・。言葉の感じとしては「人間として見限る」に近いでしょうか。怒りというか。


(ヤマ)
 そういうのも確かにありますね。でも、サンウがその状態にあったのなら、そもそもウンスの今更ながらの呼び出しに応じてはいないでしょうし、例の花鉢を祖母の死を隠して受け取ったりもしないと思うんですよね。


(bellet)
 ホ・ジノ監督の前作にも同じ印象を受けたのですが、真心の能動性みたいなものを描こうとしているのかと思います。


(ヤマ)
 なるほど。ちょっとええかっこしーなのかもしれませんね(笑)。


(bellet)
 ウンスにはそれが分からず、「今までのように、私がにっこり笑って手でも握ってみせればコロッと思い通りになるわ。」と相変わらず侮っていたため、サンウの真心に去られてしまいました。


(ヤマ)
 ここのところの観方がかなり重症に悩殺されている僕は(笑)、全く異なるんですけど、軽い口調での「今日一日、一緒にいよ〜か」という言葉をどう受け取るかってとこですね(笑)。


(bellet)
 私がサンウだとして、かつて好きで好きでたまらなかったけれど、自分を裏切った人が突然現れて、「今日一日、一緒にいよ〜か!」なんて言われたら、呆れてしまって、「相変わらずだなあ、これ以上僕の真心を試して、どうしようというの。もう付き合いきれないよ。僕たちの春の日は、終わったんだ。君には、春の日は過ぎゆくものかもしれないけど、僕にとっては、終わらせたものなんだ。」と、寒々とした気持ちになるような気がします。


(ヤマ)
 なるほど。なら、もし、見限ったとすれば、それはbelletさんのおっしゃる“裏切り”よりもこの「呆れてしまって」っていうところで遂に見限ったのかもしれません。
 でも、僕的には、実はお恥ずかしい話でもありますが、その「今日一日、一緒にいよ〜か!」という言葉に心動かされる部分があったことで、サンウは、呼び出しに応じた自分のなかに、そのときは会ってみたいと思う以上には自覚していなかったはずの自分の下心なり未練というものに気づくようなところがあったんだろうと思いました(苦笑)。
 僕が日誌に「拒みたくて拒んだというよりも、拒まざるを得なかった」と綴ったのは、そういうことなんですよ(たはは)。男は、未練がましいし、女の誘いにはからっきし弱いとしたもんです(苦笑)。まぁ、男みんながってことでもありませんけどね。そういう意味では、恋愛関係における決然さというのは、女性のほうが明快ではないかって気がしています。概して女性の観て取っているサンウ観にはそういうところが強い気がしますね。そして、受けた痛みも女性のほうがより強く共鳴しておいでるでしょうから、サンウ羨まし説なんて、びっくりしちゃうってことになるんでしょうね。女性のほうが痛みに敏感な気はしますね。痛みに強いのも女性のほうですが(笑)。


-----ウンスへの反発って私怨?-------------------------

(bellet)
 うっ、やっぱり私怨入ってるかしらん?


(ヤマ)
 私怨って、ウンスへの妬みってことですか?(笑)
 サンウのように純朴で優しい男に惚れられたのにって。


(bellet)
 きっと、いわゆる「異性にもてるか否か」というのが、分水嶺のような気がします。私のようにもてない側にいる者たちは、潤沢な人たちを横目で見ながら、「外見が駄目でも私には真心だけはあるのに。人一倍愛するのに。どうしてそこんとこ、分かってもらえないのかなあ〜。」などと、時折悲しく思っていたりもするのです。そして、あのような映画を観てしまうとたいへん身につまされるわけなんですよ(笑)。「彼岸にいる人たちは、労せずして得たものを、このように、大事にしないんだな。」と思えてきて。私怨というのは、そういう意味だったんです。


(ヤマ)
 あ、でも、イ・ヨンエに悩殺されたってことで言えば、別に顔立ちの造作とかじゃないんですよね。「悩殺される可愛らしさの体現」ということの大半は、表情や仕草としたもんですよ。顔立ちが良くて、表情乏しく仕草のがさつさが目立つ女性と目立った顔立ちではなくとも、表情豊かで仕草が心の窓になっている女性とどちらが魅力的なのかは、僕にとっては自明のことですね(笑)。でもって、単純な意味合いでモテるモテないという現象面では、外見とか心根とかいうことよりも、気安さとか固さのなさとか軽やかさというものが分水嶺になっているような気がします。
 外見にしても真心にしても確かにある種の魅力ではありますが、女性の魅力というものがそれに尽きるものではけっしてありませんよ。でも、固さを感じたり、拒絶姿勢をすぐさま用意しそうに感じたら、惹かれていても多くの男たちは、その思いを抑え込んでしまいがちだと僕は思ってます。しかも、えてして所謂もてる女性たちとは異なるタイプに惹かれがちな男ほどその傾向がより強いものだから、二人の関係のスイッチがなかなかうまく入らないんですよね。


(bellet)
 というか、真心を侮る人に対する、ホ・ジノ監督の私怨なのかも。


(ヤマ)
 あ、これ、belletさんも御存知のFさんが、まさにそういうふうにご覧になったようですよ。そういう観点からは、彼の感想文は必読ものですよ(マジ)。


(bellet)
 さきほどF館主さまの度迫力レビューも読んできました。なるほど、監督の私怨際立つラスト・シーンの変更とは知りませんでした。ウンスの顔は途中からぼやけていましたが、「計算違いにはじめて戸惑っている」または「許しを乞うて追って行こうかしら」という表情に見えたのですが・・・。ヤマさま、どう思われましたか?


(ヤマ)
 そうですか、読んできましたか、Fさんの感想(嬉)。迫力あったでしょ、入念だったし(笑)。で、ウンスの最後の場面での心境に対する僕の解釈というのは、やはり「戸惑い」が一番ですね。
 でも、それは計算違いへの戸惑いではなく、率直な自己主張や自己表現をできなくなっている自分に対して、ですよ。指を切った手を思わず挙げて振ったときの気づき以上に、率直な自己表現が出来なくなっている自分と出会って戸惑っていたと思います。日誌にも綴ったように、僕は、軽い口調での「今日一日、一緒にいよ〜か!」という言葉を「彼女にとっては照れや気後れが働いた表現だったのかもしれない」と受け取っていますから。←甘いですね、やっぱり(笑)。


(bellet)
 男女の立場は逆転していましたが、私は、『存在の耐えられない軽さ』を思い出しました。あの映画でも、やはり真心の能動性がテーマになっていたように思います。モテモテ男のトマーシュは、ふわふわと受動的なアバンチュールに生きていましたが、妻のテレーザに主体的に去られてはじめて、大切な存在を失ったことの痛みを感じる。「私にとって人生は重いものなのに、あなたにとってはとても軽いのね(だったかな?)。」というテレーザのせりふが甦りました。


(ヤマ)
 『存在の耐えられない軽さ』は、公開当時に僕も観ましたよ。確か観た年の自分のベストテンにも入れたような記憶があります。二十代の終わり頃だったような気がしますが、とても心惹かれた作品でしたね。言われてみて気づきましたが、確かに『春の日は過ぎゆく』と通じるところ、大ありですね。
 人は、癒しやくつろぎを求めるときと刺激や触発を求めるときがあるわけですよ。男だからとか、女だからとかいうこととは違いますよね。ウンスに対して、だから女はなーとか、トマシュに対して、だから男はなーって言ってみても、あんまり意味ないですよ。それよりゃ、belletさんがおっしゃるように、経済力があってモテる人はって括りのほうが、納得できる部分が大きいですね。あのときのジュリエット・ビノシュの野暮ったさってドンピシャでしたね(笑)。サンウ以上に耐えてた印象があります。車、引っ掻いたりできない女でしたよ。


(bellet)
 いやあ〜、今回は、ヤマさまが日誌に書いておられたことは、私の私怨のこもった(笑)解釈とは、まるで正反対のような感じで、その意味でとても面白かったんです。ありがとうございました。
 そして、女性は、恋愛において潔く(というか、薄情だと仰せですね)、男性は、未練と下心ですか。なるほど・・。私は、あまり男女に違いはなくて個人差だと考えているんですが、でも性差なのかもしれません。なんだか分からなくなってきました。


(ヤマ)
 「女は薄情」ですか、はい、そうとも言えますな(笑)。ただ僕の日誌でも、ウンスの心変わりについては、性差よりも個人差としてのパーソナリティの違いを感じてましたよ。


-----あの一言をどう受け取るか-------------------------

(bellet)
 「もてるもてない」ということよりも、もしかしたら裏切りに七転八倒したことがあるどうか、かも。私怨の出どころは、これかな。といっても、人生経験がまだ浅いので、本当のところは分かりません(汗)。それに私の場合、妄想ばかりが膨らんでいきますから。とほほ、失礼しました。
 でも女性も、たとえばトマシュのように戻って来てくれたら、やっぱりヤマさまのおっしゃるように、一度は許して、また一緒に生きてみようとすると思うんです(相変わらずきっと心に穴は開いたままですが)。芯から惚れているからこそ、おそらく一度は許そうとすると思うんです。
 サンウも、ウンスがあそこで許しを請うて追って来たら、諸手を挙げて迎え入れたと思います。確かにそれはサンウの未練かもしれないし、下心かもしれないですね。それなのにウンスときたら、あのセリフですからね。がっくりですよ(笑)。なんだ、戻ってくるんじゃないのか、って。


(ヤマ)
 男に未練と下心を湧き出させるものは、女という存在の宿している力であり、男の弱さなんですよね(笑)。だから、許すなんて意志的なものというよりは、引きずられのような感じ。でも、だからこそ、サンウは意志を振り絞って「訣別」を選択しようとしたんでしょう。
 ウンスのあの一言に対する僕の解釈は、めちゃめちゃ好意的というか、甘いのかもしれませんが、素朴な実感でした(笑)。だから、なんとも可哀想な気がしちゃったくらいで(あは)。


(bellet)
 そ、そうなのですか! 本当に正反対ですね。


(ヤマ)
 あら、僕の日誌からは、そんなふうには思われませんでした?


(bellet)
 あの一言は、決定的に「ウンス、駄目じゃ〜ん!」と思わせられたセリフだったんですが・・・。


(ヤマ)
 ええ。belletさんには、そうでしたよね、確かに(笑)。


(bellet)
 往生際が悪いというか、最後まで自分を勝者の位置に留めておきたくてサンウを試してみているというか。思わずサンウを応援しちゃいました。「がんばれサンウ、そこで一発、ガツンと!」って感じです(笑)。


(ヤマ)
 これ、笑! ですね。
 あの花鉢を突き返すくらいじゃガツンのうちには入んないですか?(笑)


(bellet)
 いやー、あそこで結構、溜飲を下げたんですよ。


(ヤマ)
 僕もやるじゃん!って思いながらも、ちょっとツッパッタねーって気も(笑)。でも、きっと、あの後の謝罪なり取りなしを期待してたんだろうーなーっていう思いもありますねー。


(bellet)
 やんや、やんや、って感じで(爆)。「あっぱれ、サンウ、それでこそワシの孫ぢゃ!」と、お祖母さんも天からエールを送っていたに違いありません。←妄想。


(ヤマ)
 ばあちゃんがエール送ってくれなかったら、誰も送ってくれないエールだし、せっかく突っ張ったんだから、ばあちゃんに送ってもらいましょう(笑)。


-----ともに私怨に満ちた過去ゆえに--------------------

(bellet)
 それにしても、ああいうときに相手が追ってくることって、実際は滅多にないんですよね。こっちはいくら決然と去ったつもりでも、本当は永遠にふられたままなんです。それが分かっていても、なお憤然と去るしかないんですよぉ〜、こっちの岸にいる者たちは。ああ、やっぱり私怨が、義憤が、沸き起こります、アハハ。


(ヤマ)
 belletさんには、相手からやむなく「ふらされた」経験がおありのようですね。ふらされる、ですか。うーん、そいつはかなり高等で嫌味な戦術ですね。私怨・義憤が湧き起こっても仕方ないでしょう(笑)。しかし、ウンスってそんなにタチが悪かったのかな〜。そんな女性には、どうしても思えなくって(たはは)。やっぱ悩殺されてます(笑)。


(bellet)
 いやー、そんな大げさなことではないのですが、強いて言えば、「この人いいなあ」などと常日頃密かに思っていた意中の異性が、やがてウンスのような女性にあっという間にさらわれてしまう、ということがあったぐらいです。


(ヤマ)
 それって、ふらされてもないじゃないですか(笑)。


(bellet)
 当方あまりにもボーイッシュであったため(爆)、気安く接してもらうことはできても、なかなか女性としては認知してもらえないらしく。だから、まあ、私怨というのは、「ウンスが発散する生まれ持った女性性に対して」というのが一番近いようです。とほほ。


(ヤマ)
 あ、これには誤解がありますね〜。よろしい、この機会に解いてあげます(笑)。気安く接している相手を異性として認知できないのではないんですよ。認知するようになったことを表明する呼吸が見つからないんです。なまじ現在接しているだけに、それを失いたくはないっていうのが物凄いブレーキになって掛かってきちゃうんですね(苦笑)。気安く接しているうちに寄せる想いが湧いてくるというのは、きわめて普通によくあり得ることですから、きっとそういう思いを秘めた方がおいでになったことでしょうね。あんがい後々までも懐かしみ思い出すのは、そういう気安く付き合ってくれてた異性の友達だったりしますね〜。女性の場合だって、このあたりのことは同じじゃないですか? 表明しにくいのは、却ってそういう間柄だったでしょう?


(bellet)
 うーん、ヤマさま、あんまり解けませんでしたよ(泣)。


(ヤマ)
 あらら、そいつは残念(とほほ)。


(bellet)
 やっぱり。多くの場合は(そして男性は特に)外見から入るんじゃないんですか。残念ながら、私の少ない経験則では、圧倒的にそうでした。トホホ。「し、しまった! もっと女らしくスカートでもはいて、どた靴やめて、マニュキアでも塗っとくんだった!」と反省だけはするんですが、あとの祭。


(ヤマ)
 外見って言っても、そこまで表層的だとは思えないんですけどねー。むしろ、男性は。
 逆に、どっちかというと女性のほうがかっこよさとか、スマートさ、頭のよさ、とかいったことの表面的な部分に囚われがちなんじゃないかって気がするのは、僕の私怨ですかね?(笑)


(bellet)
 あはは、ひょっとして、お互いにそう思っているのでしょうか!
 いやいや、結局、最終局面においては個人差なんでしょうね?


(ヤマ)
 まさにそのとおりですよね。
 一般化や抽象化によって考える普遍性と現実の具体性は、常にずれているとしたものです(笑)。
by ヤマ(編集採録)



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―