第14回高知アジア映画祭“世界へ、アジア映画の発信”


『神の子たち』(God's Children) 監督 四ノ宮 浩
『カンダハール』(Kandahar) 監督 モフセン・マフマルバフ
『銀杏のベッド』(The Gingko Bed) 監督 カン・ジェギュ
 日本・イラン・韓国と並んだ今回のラインナップを観終えて、感慨として残ったのは、映画という表現を介在させて感じ取る現実との距離感ということについての思いだった。それは、観る側に迫ってくる問題である以上に、作り手側が問われることでもあるという気がする。
 いわゆるドキュメンタリーフィルムとして、フィリピンの巨大なゴミ捨て場での過酷な暮らしのなかにある人々の生な現実を写し取ろうとした日本映画『神の子たち』。実際にアフガニスタンから亡命してカナダに住む女性ジャーナリストのニルファー・パズィラが、カブールに住む友人から自殺を仄めかす手紙を受け取って、「アフガニスタンへ向かう私の旅を撮影してほしい」と依頼をして撮られたイラン=フランス合作の『カンダハール』。この作品では、女性ジャーナリストの名前をニルファーからナファスに変え、向かう先をカブールからカンダハールに変え、友人を妹に変えつつも、実際に国境付近で撮影され、ニルファー本人がアフガニスタンへ向かう女性ジャーナリストを演じており、さながらドキュドラマといった風情だ。そして、完全なるフィクションドラマである韓国映画の『銀杏のベッド』では、劇映画のなかでも、とりわけフィクショナルな霊魂の蘇生の物語が綴られていた。すなわち、千年の時を越えて恋と嫉妬の妄執に彷徨う二つの魂が現代に甦り、輪廻転生のごとく現代に生まれ変わっていた画家スヒョンを巡って、再び彼の命を狙うファン将軍の壮絶な横恋慕と彼を守ろうとする美女ミダンの献身が描かれ、そこにスヒョンの現在の恋人の女医が絡む。千年前の悲恋の無念が二本の銀杏の巨木となって添い遂げていたにもかかわらず、170年前の落雷で片方が焼け倒れ、名工の手による銀杏の木のベッドになって今なお想いを留めているという伝説が現実に引き起こす怪事件ともなれば、ドキュメンタリーとは対極に位置するドラマだ。いずれの作品にも共通するのは、人の思いの強さと命の目方のようなものだった。

 最も強烈だったのは『神の子たち』だ。前作『忘れられた子供たち/スカベンンジャー』でも、平均的日本人の生活のなかにある物質的な豊かさの底に堆積する精神の淀みと脆弱さを撃たれるようなところがあったが、今回のほうが遥かにパワフルだった。前作のマニラ市のゴミの山たる“スモーキーマウンテン”が撤去され、それよりも巨大になったケソン市の“スモーキーバレー”で、長雨によって土砂崩れならぬゴミ崩れで500世帯を越える人々が生き埋めになった惨事が発生する。言葉で語られても、ちょっとピンとこないようなスケールのゴミ山だ。映画では、崩れたゴミ山から掘り出される死体や泥水に浮かぶ子供の死体が映し出され、それでも行き場がなく、そこで暮らすしかない人々の生活と姿が捉えられている。彼らの生活の糧は、ゴミ山での再生資源の屑拾いであるがために、崩落事故でゴミ搬入が停止されると、屑拾いのタネを失う。やむなくゴミをくれとの請願デモを行うのだ。
 その生活事情や衛生環境、食事、家族生活を観ていると、自分の持っている世界観や人間観のどこか根底部分を揺るがされるような居心地の悪さに包まれる。そういう境遇にあってもなお逞しく生き抜いていけるのが人間の姿だというばかりではなく、それゆえに却って研ぎ澄まされているようでさえある生命力が、万事につけて心身の脆弱さが身に染みることの多い者からすれば、けっして羨ましくはないものの、どこか眩しかったりする。しかし、その眩しさがとんでもなく軽んじられている彼らの命の目方ゆえでもあるだけに半ば呆然としてしまうのだ。四か月してゴミの搬入が再開され、歓声とともに彼らは群がっていたが、それも、けっして彼らの請願の成果や彼らの生活への配慮ではなかったはずなのだ。
 かの地では、障害をもって生まれた子供たちを“神の子たち”と呼ぶそうだ。普通の人間から離れる分だけ神に近づいているということだろうか。劣悪な生活環境では、そう呼ばれる子供たちが少なからず生まれるのも道理ではあるのだろう。そういうなかにあって、子供たちが字を書けるようになりたいとか、屑拾いの労働に勤しみながらも、学校に行ける日のことを夢見ているとか、飢え死にしても他人のものを盗むのは嫌だとか語っている姿を観ると、穏やかな気持ちでいられるものではない。だが、それを観たからと言って、その日からの僕の生活態度が格別変わるわけでもなければ、何かの活動に着手し始めるわけでもないことは、自分自身が一番よく知っている。一番の居心地の悪さというのは、実はそういう自分と対峙させられるというところにあるのだろう。観ている側でさえ、そうなのだから、手を差し伸べることなく撮り続ける映画の作り手たちは、僕以上に、目の当たりにしている現実に対して多くの強い葛藤を覚えていたはずで、そのタフさ加減には恐れ入ってしまった。

 その点、『カンダハール』は、映画として洗練されていて、そんな生なパワーで観る者を脅かしてはこないものの、爆弾や地雷で手足がないのが極当たり前のような人々の群れやわざわざ子供を狙い撃ちするかのように人形や玩具を仕掛けてある悪辣さを捉えていて、いかなる正義も大義もまやかしでしかない戦争の現実と、勝敗に関わりなく犠牲のみが約束されている民衆の姿というものが印象に残る作品だ。彼らの命の目方もまた途方もなく軽い。そんななかにあって、巧まざるユーモアというか、いかにもイスラム親父という感じで忘れ難いのが、妻の義足が気に入らないと執拗に交換をねだる男の姿だった。
 あの特段に構え込むわけでもなく、極当然の自然体として、ひるみも悪びれも気後れもなく、自分の主張ばかりを延々と続ける押しの強さと思い込みの持続力には、モフセン監督の娘であるサミラ・マフマルバフの監督作品『りんご』に出てきた双子の娘の父親の姿を思い出した。それは、少年ハクが死体から抜き取った緑色の指輪をナファスに引き取らせようと執拗に食い下がる姿にも窺われる。当初は、売り付けようとしていたが、しまいには只で渡そうとするのだから、一番の思いは、彼女の瞳の色と同じでよく似合うと自分が思った以上、今自分が仮の形で手にしている指輪の帰属すべき相手は彼女であるということだったような気がする。その思いの強さが最大の動機だからこそ、対価を得ることさえ二の次で、ましてや彼女の感じる気味の悪さや違和感など三の次にも勘案されたりしないことなのだ。こういう悪びれのない押しの強さというのは、中国映画に登場する人物像でもよく見掛けるような気がするのだが、西洋的な客観性重視の合理主義からは非常に遠いところにある、東洋的な主観性重視の合理主義とも言うべきもので興味深い。東洋人である僕の目から見ても、これらは非常に違和感が強いのだが、それは日本で西洋化が浸透しているからであって、思えば、善意の押しつけとか相手の意を汲まない結果になる遠慮による固辞とか、今はあまり見掛けなくなったけれど、かつて僕が若かりし頃、奇異に見えた日本的な慣習態度には、そこに通じるものがあるという気がする。

 『銀杏のベッド』は、映画の最初と最後を、子供の頃の写真だけで姿も見せないスヒョンの娘の語りで綴るという、伝説性を強調した構成にも顕著なケレンに満ちた作品だ。細部にこだわると合わない辻褄や無理が気になり始めるのだろうけれど、場面の力に身を任せて押し流されてみると、けっこう楽しめる映画だと思う。千年の時を越えて横恋慕を続けるファン将軍の思いの強さは呆れるばかりだけれど、自覚されない輪廻転生が無意識のうちにスヒョンを銀杏のベッドに引き寄せたり、裸婦のデッサンをしているのに、知らない間にミダンの姿を覚えのないその名とともにスヒョンが描いたりすることの底にある、永遠を誓い合った思いの深さというのは、いささかチープではあるけれど、作りの大仰さが却って馴染みやすくしてくれていたような気がする。スヒョンを守るためにミダンの霊が己の身を犠牲にし、蘇生した悪霊と化してたはずのファン将軍が千年の時を越える想いの丈の証を立てるかの如く、その霊の後を追って炎に身を投じる結末も落ち着き処として納得できる。同じハン・ソッキュ主演で、少し似たようなテイストもあった『カル』のようにどぎつくはなく、後味も悪くないところがいい。

『カンダハール』
推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2001/2001_05_14_3.html
推薦テクスト:「my jazz life in Hong Kong」より
http://home.netvigator.com/~kaorii/asi/kandahar.htm
推薦テクスト:「Happy ?」より
http://plaza.rakuten.co.jp/mirai/diary/200302180000/

『銀杏のベッド』
推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2002/2002_06_24_3.html
by ヤマ

'02. 8. 3.〜 4. 県立美術館ホール



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