『アイ・ラヴ・フレンズ』
監督 大澤 豊


 前作『アイ・ラヴ・ユー』をほとんど期待もなく観に行って、思わぬ満足を得た記憶も新しい忍足亜希子主演、大澤豊脚本監督の新作だが、いろいろな意味で前作を一歩も二歩も進めた作品になっていた。
 最も印象深いのは、前作ではまだ聾者と聴者の間のコミュニケーションや差別の問題を扱っていたのに、今回は確信犯的にそれをやめていることだ。この作品では、聾者と聴者の間のズレというのは、息子の優太が聾者の子供であることで学校でからかわれたエピソードや造園会社の社長(田村高廣)の友人(石倉三郎)が言葉の通じないことを過剰に意識していて笑わせるような場面に垣間見えるだけで、物語の本筋には登場しない。聾者であることで観客の涙を誘うような存在としては、金輪際描くまいという作り手の決意のようなものが窺われて、爽快だった。主人公美樹(忍足亜希子)は、残された視覚の確かさによる才能豊かなカメラマンとして、また、夫に先立たれ、深い喪失感の痛みを知る者として、更にはそこから再び生きる力を取り戻した先達として、いたわりを受ける側ではなく、むしろ傷ついた人の心を優しく癒し、生きる力を取り戻させる存在として描かれている。作り手のその決意からすれば、彼女に励まされ、救われる柴田(萩原聖人)は、もちろん聴者でなければならない。
 だが、この物語のいいところは、そういった意図が構図的に見え透かないような人物造形を柴田に対しておこなっているところだ。花木を愛する心優しい植木職人としての彼の仕事や交通事故で子供を死なせた罪の意識から植えた桜草によって、彼もまた、知らず知らずのうちに人々を励まし、癒している若者として描かれていた。そして、美樹にそのことに気づかせてもらえることで生きる力を取り戻すという展開を見せるのである。根本のところにあるのは、常に誰かは誰かのために、確かに必要とされるだけのことを果たし得る存在なのだという人間観なのだろう。しかもそれは、現実にこの世に存在している人間に留まらず、残された人々に人間としての確かな存在感を植え付けた死者をも含めた形のものとなっており、人間の果たし得る力に対する信頼感となって表れてもいる。そういう意味では、すべての人が、桜草ならぬ記憶を植え付ける人生の植木職人として生きているわけで、同時に写真ならぬ記憶を受け止め、現像し、提示するカメラマンでもあるのだろう。
 もうひとつ、前作と比較して印象深かったのがファンタジー嗜好がより顕著になっていることだった。前作においても、ハリウッド映画に対する憧れを明確に窺わせつつ、限られた製作費を露呈しながらも、ファンタジックなシーンを描出しようとしていたように見えたが、今回は、前作よりも製作費が増したようだし、何より人間としての確かな存在感を植え付けた死者としての亡夫の果たす役割が大きいのだから、堂々とやれるわけだ。最近観た『ギフト』にも、主人公の亡夫である父親の霊的存在を偲ばせる形で、この世に不在でも果たし得る力の存在に対する信仰ないしは願いのようなものが込められていたような気がしたが、この作品では、それがもっと率直な形で描かれていた。作品のテイスト自体は対照的で、日米の違いもありながら、ふっと連想させる何かを感じたとき、『アイ・ラヴ・フレンズ』という作品のキーワードとして、サム・ライミ作品で使われた意味とは異なるのだけれど、“ギフト”という言葉がぴったりくるような気がした。
by ヤマ

'01.11.25. 県民文化ホール・グリーン



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