『ギフト』(The Gift)
監督 サム・ライミ


 ひと頃のTVの火曜サスペンスだとか、昨今流行の和製ホラーとかオカルト映画の類とさして変わらぬ筋立てなのに、演出や編集の妙味、役者の演技力などによって、かくも違うものかと驚いてしまう。しかも、最近の映画の掟破りのような意外な犯人像などというのではなく、最も正統で古典的な犯人を割り当てながら、ぎりぎりのところまで確信的には見透かせないのは、ヴァレリー(ヒラリー・スワンク) やウェイン(グレッグ・キニア)、検事(ゲイリー・コール)やバディ(ジョヴァンニ・リビシー)など不審人物の配置とその観せ方が、実に巧みだからだ。それが単に観る側を撹乱させるための映像にはなってなくて、きちんと意味するものがあり、呼応するシーンが準備されている。そして、人物造形の確かさとそれを表現する演技力の充実がある。だからこそ、“ギフト”などと呼ばれる霊力による謎解きであったり、最後に起こる、霊力以上に在り得べからざる超常現象さえもが、捜査に当たった警部の発する「人間って、わからんもんだな」という嘆息と呼応して、現実のまことに測りがたき不思議さとして妙に腑に落ちてしまったりする。見事なものだ。

 僕が住んでいる四国には、東北などとも同じように僻地ゆえのものかもしれないが、“死国”や“狗神”といった土地の神秘や因習を偲ばせる風土的なものがあるが、アメリカのような新世界の国においても、そういったトポスというものがあるらしく、どうやら南部がそれにあたるようだ。『悲しき酒場のバラード』『エンゼル・ハート』グリーン・マイルといった不可思議な感覚の映画が南部を舞台にしていたように記憶しているのは、それが偶然のもたらすものだとは僕が思っていないからなんだろう。

 それにしても、脚本を書いたビリー・ボブ・ソーントンの暴力と人間の不思議についての強い関心と問題意識は、どこからきたものなんだろう。自ら監督し、主演も果たしたスリング・ブレイドでも、幼児虐待に目が向けられ、人間の魂の問題が問い掛けられていた。『ギフト』においては幼児虐待に加え、ドメスティック・ヴァイオレンス[DV]が描かれる。敬愛できる家族としての男性ないしは父親の不在は、もしかすると彼が問い続けないではいられないテーマなのかもしれない。

 アニー(ケイト・ブランシェット) が与えられた“ギフト”を何とか自身で受け入れられた経緯には、祖母の力によるものが大きかったようだが、事件に巻き込まれ、法廷で苛まれ、ドニー(キアヌ・リーヴス)やバディを不本意ながら無実の罪に陥れたり、凶行に及ばせたりするなかで、持てる“ギフト”に耐えかね、“ギフト”を持つ自分自身に耐えかねるようになる。そんな彼女の心を救ったのが誰であったのかを考えると、それが男性であるのならば、やはりその人物は『スリング・ブレイド』のカールと少なからず重なる部分を持ちつつも、それ以上に実際にスピリチュアルな存在にしておく必要があったのだろう。そして、さらにそこに、事故死で不在となった、我が子らの父親たる、亡き夫の霊的存在をも重ねたところには、不在でも果たし得る力の存在に対する信仰ないしは願いのようなものが込められていたような気がする。

 そんなラストシーンであったればこそ、『スリング・ブレイド』を観たとき以上に、ビリー・ボブ・ソーントンにとっての父親の存在というものが何だったのか、大いに興味を引くところが残った。




推薦テクスト: 「マダム・DEEPのシネマサロン」より
http://madamdeep.fc2web.com/thegift.htm
by ヤマ

'01. 9.10. あたご劇場



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