『点子ちゃんとアントン』(Punktchen und Anton)
監督 カロリーヌ・リンク


 『ビヨンド・サイレンス』で、人間の関係性を非常に繊細かつ知的な視線で捉え、しかも抒情性豊かに綴っていたカロリーヌ・リンクの監督作品ということで期待していた映画だ。そしたらオープニング早々からトランポリンで宙に舞う子供の姿が、何とも伸びやかで心地よく、ふと『ガープの世界』のオープニングの宙に舞う赤ん坊の姿を思い起こさせてくれた。そして、人間と人生に対する肯定感のようなものを胸のうちに準備させられたような気がする。けなげな子供たちと善意に満ちた関係者の支えによって、家族の絆を取り戻し、幸せなエンディングを迎える物語だ。良心的で、観る者を楽しませる、ユーモアに溢れた作品であることは、一目瞭然だ。
 だが、リアリズムを求めたものではないファンタジーのような作品にリアリティの観点から文句をつけるのは野暮な話だと思いながらも、僕には点子ちゃんことルイーゼ(エレア・ガイスラー) の母親の改心がどうにも納得がいかず、妙に居ずまいの悪さが残った。
 唯一つ母親からの愛情を除いて、世の普通の親が、叶うことなら子供に与えたいと願うものの総てを与えられているルイーゼとそのちょうど正反対のものだけ与えられているアントン(マックス・フェルダー)を通じて、二人のそれぞれの母親が極めて対照的な形で描かれているのだが、そこに浮かび上がってくるのは、仕事に忙殺される夫の不在や社会的な自己実現への欲求を口にしながらも、自分の子供を愛せないことに後ろめたさを感じているとおぼしきルイーゼの母親像だった。その過剰なまでの自己の正当化と他者への攻撃性は、自身への不安と疚しさがあって初めて釣り合うといった形で描かれていたように思う。さらに言えば、子供の愛し方がわからない彼女の不幸は、高価なライターを遺品として残している大金持ちの家系(あれほどの豪邸は、少々高給取りの心臓外科医でもむずかしいはず)に生まれ、親にかまってもらえなかったことに起因することを偲ばせてもいた。
 出張先のアフリカからの久しぶりの帰国早々に開いた豪邸でのホームパーティにかまけて、娘とその親友を黙殺したり、事情も言い分も聞かずに叱りつけ、自室謹慎を命じるルイーゼの母親と、病床にあっても、訪ねてくれた息子の親友と彼女からの下手すれば施し物とも感じないではいられないかもしれないケーキや果物をベッドで一緒にもつれあって食べながら影絵遊びに興じたり、警察が出動するほどの大騒動を引き起こして捕らえられ、叱責を覚悟している息子に対して、まずは抱き締めることから向かうアントンの母親との対照には、そういうものが背景として描き込まれているように感じられた。
 だからこそ、アントンに対する悪い印象が泥棒逮捕の顛末で解けたからだとか、ルイーゼにプールに突き落とされて二人抱き合ったからだとか、夫の帰宅時刻が早まりそうな按配になったからだとかいう程度のことで、彼女が自分の子供を愛せない不幸から抜け出せてしまうことに、違和感が残るのだと思う。
 確かに最後のハッピーエンドは、アントンに誘われても直ちに海遊びに足を踏み出せないほどにルイーゼの胸を一杯にさせるものとして、かのけなげな二人の子供に対する神様からの御褒美として、ファンタジーには不可欠のエンディングではあるのだが、観ていて、手放しになれない自分を感じていた。エーリッヒ・ケストナーの原作では、ルイーゼの母親には、どういう人物造形がなされていたのだろう。

推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2001/2001_08_27_2.html
by ヤマ

'01.11.26. 県民文化ホール・グリーン



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