『アイ・ラヴ・ユー』
監督 大澤豊/米内山明宏


 中央公民館2F会議室での試写という形で観たこともあろうが、初めのうちはいかにも啓発映画的な映像と展開に少々退屈していた。せっかく聾者と聴者が、スタッフ・キャストのみならず共同監督までしているというのに、それならではのものが実感として伝わってこない。
 ところが、聾者の家族の中で育った冒険心と自立心に富む聾者の若者と聴者の家族の中で聴者並みを目指す生き方を叱咤激励されてきて育った聾者の娘が、稲垣潤一の若々しい歌声をバックに、オートバイに乗って静岡の豊かな自然の中でのデートを楽しむ中盤のシーンで啓発映画にはない映画的な雰囲気を醸し出してから、俄然この映画が生き生きとし始めてきた。なかでも、初の主役の舞台で緊張のあまり台詞が言えなくなってしまって以来、パントマイム役者に転向してまで、好きな芝居を続けている聴者の森田おじさん(不破万作)のキャラクターが活きていた。聾者劇団というだけで特別扱いされることに憤慨する劇団仲間に「贅沢なんだよ」と一喝する場面がその場だけには終わらず、芝居が好きで苦しい生活を凌ぎながらも断念せずに続けている森田の生活をきちんと描くことで説得力を与えられていたし、何よりも造形された森田の個性が素晴らしい。こういう部分は啓発映画にはまず見られないものだが、映画に膨らみと豊かさを与える大事なものだ。
 一般的にはハイライト・シーンは、公園での朝子(忍足亜希子) と愛(岡崎愛)の感動の場面なのだろうが、僕には聾者の朝子と聴者の隆一(田中実) 夫婦の絆と葛藤が印象深かった。心優しく家族思いの隆一が劇団活動で家事が疎かになり娘の怪我を招いた朝子に「聾は聾なんだから、突っ張るなよ」と言ったことを伏線にして舞台公演の成功した夜、「良い夫、良い父親であろうと突っ張っていたのは自分のほうだ」と謝る場面がある。逆説的に「ときには突っ張っていることを咎められたり謝ったりしなくてはならないくらいに突っ張って生きなきゃ」って言われているような気がした。皆人こぞってあまりにも現実に甘んじ諦め、ときには居直って易きに流れ、斯くあるべきとか斯くありたいというものを失って生きている今の時代だからこそ、身に迫ってくるものがある。
 製作費の乏しさが随所であらわになっていたり、演出面でも例えば、聾者を描いていればこそ朝子の切符を拾って追ってくれた男には、肩を叩く前に必ず声を掛けさせなければならないところが抜け落ちているとか、子供の寝顔を見ながら話せるのは手話だからこそだねと語り合って和解した朝子と隆一のキスをシルエットで写し、眠っているはずの愛にカメラ目線でウィンクさせて微笑ませるというハリウッド映画を真似ながらも、こなれずに浮いた演出(そう言えば、『風と共に去りぬ』とか『ET』を想起させるショットもあったなぁ)だとか、ホールから走って出たはずの朝子と愛が急いで戻る際になぜ車を拾おうと苦労するのかは、偶然通りかかった隆一の消防車に乗せてもらうためだったとか、俄仕立の芝居にしてはあまりにも立派すぎる舞台『美女と野獣(鏡の月の庭園[日本ろう者劇団])』だったりとか、気になるところがたくさんありながらも、作り手の志や善意というものがきちんと伝わってきて気持ちよくしてくれると許容できてしまうのだから、これもまた映画の力というものではあるのだろう。何にもまして、観終えた後、静岡って何だかとってもいいところだなぁという素朴な好感が湧いてきた事実が僕自身の満足を示している。
 それにしても、試写会場は大半が女性だった。この映画でも主人公も原作も女性で、主人公の加わる聾者劇団もほとんどが女性。静岡県から委嘱された芸術監督も女性なら、日本ろう者劇団理事長にはトットちゃん基金の理事長黒柳徹子があたっていたから、これまた女性だ。そう言えば、手話のできる聴者の数にしても圧倒的に女性が多いような気がする。手話に限らず、日本語以外の言葉ができる日本人は、女性のほうが多いような気がするなと、ふと思った。

推薦テクスト:「eiga-fan Y's HOMEPAGE」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex
/acinemaindex.html#anchor000399
by ヤマ

'00. 3.16. 中央公民館視聴覚室



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

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