『さらば箱舟』
監督 寺山 修司


 寺山作品は、あまり僕の好みではないのだが、彼の遺作ということもあって観た。彼の作品の特長として、特異で強烈な映像感覚とそれに負うところの展開としての脈絡の難解さがある。そういった作品を撮るのは何も彼だけではないのだが、その手合いには往々にして独善的に過ぎるものが多い。作り手の思い込みだけに留まっていたり、ある場面ある映像さえシャープであれば、全体としての脈絡やバランスは、どうだっていいと思っている節やそれどころか難解なのをもって芸術的だと自惚れている、お粗末なハッタリ屋さんによくお目にかかる。彼は、そういう手合いに堕するか堕しないかの際どいところを行ったり来たりする。ハッタリめいた只の思いつきに過ぎない安直なものが出てきたりするものの、時にはハッとするほど深遠なものに繋るイメージや極めて興味深いものもある。

 この作品においては、殺人という行為によって錯乱に至った山崎努の“物の名前を忘れて行くエピソード”なぞが後者に当たる。現実からドロップ・アウトし、幻覚としての死者と語り合う。彼が現実からドロップ・アウトしつつある姿というのが、物の名を忘れることや忘れぬためにする貼紙といったイメージによく現われている。また、その彼をかろうじて現実に繋ぎ止めているのが、彼の妻の存在だということも、あのイメージのなかだからこそ、よく判かるように描けるのだと思われる。総ての不自然な、何や訳の分からぬ設定も展開も、結局あのイメージへと展開させるためのものだったようであり、あの二人の男と女を描きたかったのであろう。行為としてのセックスを全く閉ざされた男と女(禁欲でも断念でもない)でありながら、あれほど強く繋っていた姿は、現代の男と女のあり様への反問である。そのうえで、彼らが肉体的結合を狂おしいほど求め続けていたことは、男の死後、呪いが解けて外れた貞操帯を、かつてあれほど外そうと苦労していたのに、何の未練もなく再び嵌めることと併せて、セックスというものの本当の意味を問いかけている。

 あざとい所が目立つ点、総じて救いがなく暗い点、全般的には僕の好みではないが、寺山作品のなかでは共感しやすいほうのものである。そのことは、演技陣に負うところも大きい。小川真由美、原田芳男が山崎努とともにとてもいい。
by ヤマ

'84.11.21. 大森キネカ



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>