『タイタンズを忘れない』(Remember The Titans)
監督 ボアズ・イエーキン


 実際に、三十年前のアメリカの田舎町で起こった実話の映画化だという。そんな昔に遡らなくても、地球上のあちこちで名もなき人々によって、語るに足る奇跡のような実話がスポーツに限らず生まれ続けているはずで、それこそが人間の持つ未来への可能性であり、同時にいつまで経っても、それが奇跡のように見えるところが人間の哀しい現実だ。とはいえ、名もなく埋もれていく彼らの残した逸話にこうして三十年の時を隔てても、光を当て、掘り起こしていくことは、偉業を残した彼らに報いる何よりもの賞賛となり、受け継ぐ者の誇りと覚醒を呼び起こす。
 この物語がとりわけ素敵なのは、ヒロイックな個人を讃える話にもなりかねないところを、メンバーの個性と個々人の関係性の総和としてのチームのダイナミズムが状況を変える奇跡を招いたことを見事に語っているからだ。チーム・リーダーとしてのヘッド・コーチの影響力が甚大であることは言を待たないが、彼が孤軍奮闘するだけでは奇跡は起こらない。小さいとはいえ、ひとつの町の空気を変えるほどの状況の変化は起こせない。黒人のヘッド・コーチ(デンゼル・ワシントン)のほかにも白人のアシスタント・コーチ(ウィル・パットン)、そして何よりも選手たち自身、とりわけ主将を務めた白人ラインバッカーが重要な役割を果たしており、彼に加えて、その生涯にわたる親友となった黒人ラインバッカーや“牧師”と呼ばれる黒人クォーターバック、“サンシャイン”とあだ名された都会からの白人転校生クォーターバックなど。また、アメフトチームとしての奇跡の快進撃ということでは、彼らのほかにも快速ランニングバックから守備のスーパーサブを務めた黒人選手や大事な場面で自分からポジションを譲った白人選手など、どの人物が欠けても、この奇跡の物語が生まれなかったことを映画がうまく伝えてくるところがいい。
 チームワークということが何にも増して要求されるアメフトというスポーツにおいて、人種差別の根強く蔓延る田舎町で人種混合チームが成功したのは、まさしく奇跡というべきものだろう。だが、逆に水も漏らさぬチームの結束が求められる世界だからこそ、真にアメフトを愛し、勝ちたいと願うなら、それを達成するしかなかったとも言えるのだ。そして、まさしくそれこそがスポーツというものの持つ可能性でもあるという気がする。
 そういうチームスポーツの魅力と可能性を生き生きと伝えてきたという点では、人懐っこい巨漢の白人選手である肥満体ディフェンスの存在が大きい。最初に黒人チームメイトに歩み寄った彼がいなければ、奇跡のタイタンズは、生まれなかったかもしれないのだ。彼は選手としても一流ではないし、成績不良で進学も諦めていたが、だからこそ、アメフトが好きだということでは最も純粋だったとも言える。アメフト映画の秀作『ルディ/涙のウィニングラン』(デビッド・アンスポー監督)のルディも、まさしくそれによって奇跡を呼び起こした選手だったが、彼ほどにヒロイックではないゆえに、却って普遍的な存在感をもたらしている。そういう人物がチームスポーツで果たす役割にきちんと眼を向けているところが印象深いし、この作品がありがちなヒーロー伝説のような映画にならなかった視線の根本を支えているように思う。(ひょっとすると、チームメイトやコーチに助けられた成績向上で大学進学を果たし、大学でもアメフトを続け、今や実業家として成功しているという彼の存在が、そもそも三十年の時を経てミラクル・タイタンズが映画化されたことに大きく影響しているのかもしれない。)
 それにしても、チームに関わる個々人がチームを変えていき、チームが変わっていく手応えのなかで選手のみならず指導者も含めた個々人が成長し、遂には状況すらも変えてしまうチーム・ダイナミズムというものは、とてつもなく凄いものだ。これが総ての組織で活かされたなら、人間社会は、きっと素晴らしいものになるだろう。しかし、現実はけっしてそうはならない。にもかかわらず、この作品はその可能性を希望として信じさせてはくれるのだ。でも、その秘訣までは教えてくれない。そんなものは、どこにもないということだろう。だが逆に言えば、どこにもないのは秘訣だけなのだ。可能性は、どこにだってあるはずなのかもしれない。


推薦テクスト:「Ressurreccion del Angel」より
http://homepage3.nifty.com/pyonpyon/2001-3-7.htm
by ヤマ

'01. 6.10. あたご劇場



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