『ことの終わり』(The End Of The Affair)
監督 ニール・ジョーダン


 一時間四十分は、けっして長尺とは言えないのに、観終えたときにはいささか疲れ果てていた。度し難く、辟易とするモーリス・ベンドリックス(レイフ・ファインズ) のキャラクターに執拗に付き合わされながら、それがいちいち自分自身のネガティヴな部分と嫌になるくらいに重なって、まるで時間を掛けて、ゆっくりとはらわたを引き出されているように感じたからだろう。
 恋愛や信仰が作品の主題のようにも見えるが、僕にとって、この映画は、紛れもなく我執の映画だった。いかにも小説家らしい饒舌さと呆れ返るほどの我執、しかもそれらを自覚し観察しながらも一向に反省することなく、むしろ居直る形で表出できるいい気さ加減。自らに向ける批判的な言葉は冷静なだけに痛みがなく、そのうえ自身の視線にいささかナルシスティックな満足感が漂っている。さらには、うんざりするほどの自我肥大と過剰な自意識があり、加えて不気味なまでの自信と攻撃性が根底に窺える。作家的資質には溢れているのかもしれないが、不愉快きわまりない男だ。よくもまぁと仰天するような厚かましい言葉を不倫相手の人妻サラ(ジュリアン・ムーア) にも、彼女の夫で自分の友人であるヘンリー(スティーブン・レイ) にも、さらにはスマイス牧師にさえも、容赦なく放射し続ける。しかも、それらが知的にソフィスティケートされているものだから、如実に愚劣さを窺わせながらも、ついぞ断罪されないところに始末の悪さと救いのなさが残る。
 僕にはモーリスほどの美貌も才能もないからこそ、ここまで野放図に表出できていないだけで、仮にそのふたつを得ることによって全面開放したら、こんな醜態をさらすのかもしれないなどという思いで見守るのは、二時間足らずと言えども疲労と消耗の極致であった。  とりわけ最後の最後に、サラを火葬に付していなければ起きたかもしれない奇跡を巡って、神の存在の有無を問わざるを得ない状況に到っても、サラへの想いや悔恨よりも、無神論者としての自身にとっての神の問題のほうが重大だったりする姿には、凄みさえ漂うが、所詮はただの我執であって、何事であれ凄けりゃいいってものではないと言うほかない。
 しかし、考えてみれば、モーリスに限らず、サラにしたってヘンリーにしたって、第三者から観れば、愚かしく滑稽なまでの独り相撲でのみ身を処しているにすぎない。彼らの行動と選択が自身以外の誰かのためになされたことは、ただの一度もなかったように思う。サラがモーリスと別れたのは、彼のためでも夫のためでもなく、自身の立てた誓いへの思い込みのためだし、ヘンリーがサラに執着し、モーリスを許すのも、自分自身の望むもののためでしかない。モーリス以外は、他者を責めたりしないだけである。
 しかし、この違いは存外大きく、サラとヘンリーには同情を買う余地が多少あり、モーリスには不愉快さが際立つばかりだ。しかも、それが対象化できる不愉快さよりは、身につまされる不愉快さだっただけに、いささかこたえた。それだけ、作品に力があったわけで、それには大いに感心しつつも、到底、好きになれる作品ではない。ただ恋愛にしても信仰にしても、それが恋人であれ神であれ、所詮は対象を素材にして自身の作りあげる思いこそがすべてでしかないものであることを徹底的に描いたうえで、いたずらに冷笑的ではなく、官能のきらめきや信仰の力といったものを感じさせて、ある種の感銘を与え得る作品になっているところは侮れない出来栄えだ。

推薦テクスト:「cubby hole」より
http://www.d4.dion.ne.jp/~ichiaki/2001-1.htm#ことの終わり

推薦テクスト:「銀の人魚の海へ」より
http://www2.ocn.ne.jp/~mermaid/kotono.html
by ヤマ

'01. 4. 3. 松竹ピカデリー1



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