『サン・ピエールの生命』(La Veuve de Saint-Pierre)
監督 パトリス・ルコント

   実に堂々とした映画だ。近頃ちょっと捻じれた卑俗な人間像の安っぽいドラマばかり観せられているものだから、ジャン(ダニエル・オートゥイユ)とポリーヌ(ジュリエット・ビノシュ)、ニール(エミール・クストリッツァ)の間には、おそらく何かが起こるのだろうと高を括っていたら、そんな下種の勘繰りの卑しさが忸怩たる思いとして跳ね返ってきて、内心、恥じ入っていた。映画のなかだからこそ出会える、凡人には真似のできないような超俗の魂と触れ合うことで、時にはこうしたカタルシスを得ていたいものだ。

 こういう作品を観ると、人の魂の姑息と威厳を分かつのは、とどのつまりは美意識だと再認識させられる。総督の無様さ、行政官の卑しさ、判事の弱さに対して際立つジャンとニールのダンディズムは、いささかナルシスティックでさえあるけれど、いかにも渋い輝きを放っている。そして、その二人の男の美意識の発露は、それぞれ愛と感謝の色合いの濃淡が微妙に異なりながらも、ともにポリーヌという女性のイノセンスに由来しているところが実に古典的で、僕にはとても共感できるものであった。

 ポリーヌ自身は、ジャンに対しても、ニールに対しても、生命を懸けたそこまでの突っ張りを求めている自覚はないのだが、実際のところは無意識のうちに求めていたのはポリーヌであり、二人の男は、それに触発されたのに過ぎないような気がする。英国領に逃したはずのニールが自ら処刑されに戻って来たり、夫が予期せぬ処刑に追い込まれたりするたびに、動転し、驚くポリーヌへの観る側からの許容は、そこにイノセンスを感じられるか否かに掛かってくる。ある意味では、とてつもなく恐ろしい女でもあるわけだ。

 興味深いのは、作品のなかに窺える“変えることや変わること”に対する非常にデリケートな感覚と眼差しだ。無自覚なポリーヌによって、毅然たる美意識に基づく強烈な自覚への覚醒をもたらされ、苛烈な魂を獲得した二人の男が、その美意識に殉じるパトス(受苦)の精神によって、ともに劇中でも使われる“運命論者”という言葉で評されるような潔さを自らの命運に対して持つに到ったように見える。その美意識は、自らの生命を守り、長らえるために、状況なり運命なりを変えようとする形の自己実現を小賢しく卑しいものとして排除し、敢えて変更を求めぬままに甘受させる。作り手は、その姿を愚直とせずに、肯定的に凛々しく謳いあげると同時に、そのように変わり得る、人間の魂の可塑性についても併せて静かに謳いあげている。

 それにしても、愛以上に美学に殉じる人間像を戯言のようには映らぬ説得力を備えた映画に仕立てあげることができるのは、今時なかなかたいしたことだ。だが、どうしたって時代劇でないともはや成立が難しくなっているようにも思う。そういう意味で、ファイア-・ライト輝きの海を想起した。

by ヤマ

'01. 3.15. 美術館ホール



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