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『輝きの海』(Swept From The Sea)


 人間としての等級といったものに思いを馳せさせられる映画だった。そして、人の心に癒しと救いをもたらす“赦し”という心の営みの必要性と崇高さ。それらは人としての気高さというものに、言葉を替えたほうがいいのかもしれない。
 エイミー(レイチェル・ワイズ)が、熱にうなされ錯乱するヤンコ(ヴァンサン・ペレーズ)を前にして恐怖に駆られ、看病を放棄してその場を逃げ出し、死に至らしめたにしても、ケネディ医師が(イアン・マッケラン)が、過酷な出生の秘密のもとに親の愛に恵まれず心を閉ざしがちなエイミーへの偏見をなかなか捨てられないでいたにしても、頑迷で心ない仕打ちによって迫害と差別を加える村人たちに比べて、彼らのほうが許しを請わねばならぬ罪科を多く持っているわけではないのは、明白だ。しかしそれにもかかわらず、心の問題として赦しを必要とするのは彼らのほうであり、村人たちではないところが、いかにも人間の本質を突いている。
 乗船者全員が遭難して生存者なしでも何の不思議もないはずのところをヤンコ一人が一年ほど長く生き延びたのは、まさしくケネディ医師が語るように、孤独なエイミーに愛児を授ける永遠の恋人として神が遣わした海からの贈り物だったからなのだろう。海辺の洞窟に漂流物で飾った自分だけの安らぎの小部屋を作っていたエイミーに相応しい恋人だと言えるし、話の構築としてもロマンティックで絵になると思う。だが、この物語を最も魅力的なものにしているのは、英語を話せないヤンコを獣人扱いする人々にあって、いち早く彼がチェスの上手いキエフ人であることを発見し、人間に対する尊厳でもって遇したケネディ医師を単に心ある賢者という人物造形に留めていないところだ。
 ヤンコが息子を貴方のような人に育てたい、農民にはしないと言ったとき、どういうことかとケネディ医師が聞き返すと、医師だとか自分を助けてくれたとか言わずに、「知性があって、加えて宇宙の神秘に思いを馳せることのできる感受性を持っている、そんな人にしたいのだ」というようなことを言われ、彼は感銘を受けるのだが、その直後に、そんな貴方がなぜエイミーを嫌うのかが判らないとも指摘されて、ちょっとひるむ場面がある。また、病床のヤンコを再訪する約束の時間を守れなかった負い目も手伝って殊更に彼の死をエイミーのせいにしたり、追い打ちをかけるように、ヤンコを失った悲しみに浸る様子もなく忘れ去ろうとしているエイミーを非難したりもする。それに対して、車椅子生活をしているミス・スォファー(キャシー・ベイツ)から「悲しみに浸ることもできないくらい辛いことは一刻も早く忘れ去ろうとするしかないんですよね、貴方が奥さんを失ってそうしたように」というようなことをしっかり指摘される。そして彼が礼を言い、エイミーのもとを訪ねることになるわけだが、この二つの場面があるからこそ、エイミーとケネディ医師による、ラストの赦しと癒しの場面が生きて くるのだと思う。
 それにしても、人間の根源的な生命の力の発露のような感情体験やらそのダイナミズムを体現する人間像を描こうとすると、現代という時代設定では難しくなってきているのではないかという気がする。『日蔭のふたり』や『ファイヤーライト』などを想起しながら、ふとそんなことを考えた。

推薦テクスト:「eiga-fan Y's HOMEPAGE」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex
/kacinemaindex.html#anchor000099
by ヤマ

'00. 1. 8. 県民文化ホール・グリーン



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

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