『ドレイ工場』
監督武田敦/総監督山本薩夫


 高知県労連結成十周年記念上映会でもなければ、なかなか観る機会の得られない貴重で興味深い映画会であった。68年の映画となれば、今から三十年前だが、むしろ当時以上に今観ることのほうが意義深いように感じられた。(映画の最後には67年11月の文字が出たが。) 良くも悪くも“日本の労働者運動”というものの理想を称揚した作品だから、それだけにこの作品のなかで謳いあげられた労働者観、経営資本家観、労働者運動観に対する疑問と不満が湧いてくるのだ。
 例えば、労働者運動家としてはほとんど完璧なくらいに理想的な人物として描かれる大村委員長が、組合活動を顕在化させる前の一労働者として描かれているときには、そう好感の持てる労働者像ではなかったりするけれど、そこには妙に意図的なものを感じた。だからかもしれないのだが、苦しい組合活動に携わるなかで彼が成長していく姿を強調するのが自然な筋立てなのに、他の新たに組合に参加した労働者はそのように描いても、彼だけはそのようには描かない。指導者として心酔できる人物としたうえで、田口書記長に「大村さんがあんまり悠然と立派にしているものだから、下の者がとてもかなわないと焦って、劣等感を抱いてついていけなくなったりするんです。」などという台詞さえ言わせている。それは、リーダーの在り方の難しさを鋭く突いていてハッとさせたりはするものの、ある意味でこういうリーダーを擁し、心情的に団結する労働者運動を現実的な理想像として掲げたことこそが、今日の日本の労働者運動のていたらくを招いたようにも思えるのだ。
 それを一言でいうならば、「情緒的な、あまりにも情緒的な連帯」なのである。こういう絆は力を発揮するときはそれこそ強力な結束力をもたらすのだろうが、いかさま移ろいやすい。加えてそのハイテンションな情緒的一体感にまでは心情的に到れない者に対して、結果的に心理的疎外感を与えてしまう。本来、熱が冷めるとか盛り上がるとかいう乗りで進んでいくべきものではないはずなのだが、その側面に支えられる部分があまりにも強過ぎるように感じられた。
 とはいえ、それなりに感動的ではあって、二十年前に勝てる見込のない闘争は中止すべきだとの内部造反の先陣に立って、結果的に組合運動を潰してしまった苦い経験を持つ馬場さんのエピソードや再び活動に手を染める彼に反対していた奥さんが支援集会場に遂に姿を見せつつも、一体どれだけの仲間が集まってくれるのか不安で後ろを見回すことが出来ずにいたのに、大勢の参集者を目にして感激する場面など記憶に残るものがある。だが、とりわけ僕が感銘を受けたのは、当日上映会場に来ていた人たちの反応であった。観客の大半を占めていたのは比較的高齢の方たちで、嘗て実際に労働者運動に身を投じていたであろう人々だったのだが、彼らが随所で漏らしていたすすり泣きには、今の労働者運動の有様を思うと得も言われぬ重みがあって、しみじみとした気持ちにさせられた。そういう意味では、この上映会ならではのものがあった。
 キャスティングも今から観ると味のある役者さんばかりを贅沢に集めた感じの豪華版で、協力劇団を一覧しても、この作品に協力していなければ新劇の看板を降ろさなきゃいけないんじゃないかと思われるほどに勢揃いしていた。映画というものが時代を掬い取ることにたけた表現であるという点では、この作品は、すぐれて映画的な作品だったと思う。
by ヤマ

'00. 1.27. 県民文化ホール・グリーン



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