『ファイアーライト』(Firelight)
『ワン・ナイト・スタンド』(One Night Stand)
監督 ウィリアム・ニコルソン
監督 マイク・フィギス


 際立たせるために敢えてカップリングしたのではないかとつい勘繰ってしまうほど鮮やかな対照を見せた二本立てであった。

 『ファイアーライト(暖炉の明かり)』は、凛とした情熱などという滅多にお目に掛かれない、素敵な生き様の女性を見せてくれた。シネマスコープ画面を生かした映像や演出さらには美術で、いかにもイギリス風な節度と抑制を前面に出しつつも、内なる激しさや感情の丈の深さをヒロインのエリザベス(ソフィー・マルソー) はもちろんのこと、どの人物についても確かな手応えでもって伝えてきてくれる。映画としての格調の高さを感じた。お話自体は、陳腐なロマンス小説のような筋立てや道具立てなのだが、台詞や演出などのディーテイルが素晴らしく、場面の作りが見事だ。

 ソフィー・マルソーの演技が充実していて、その表情、肢体、仕種のいずれにも魅了された。父親の借金返済のために代理出産に肉体を提供したり、産みの母を名乗ることのできない家庭教師としてしか娘の前に姿を現わすことができなかったり、身分違いの既婚の男に寄せ始めた思いも伝えられる立場ではなかったりといった、いかなる苦境にあるときも、それに耐えるなどという受け身の姿勢は微塵も窺わせずに、毅然と立ち向かっていく。江戸時代末期当時のイギリスで、現代女性でも匹敵する人が希有なくらいに、誇りと自覚に目覚め、心の自由と独立のために自立して生きられる女性であろうとしていたエリザベスにとっては、それらのことだけでなく、当時においては女であること自体が生きるうえでの苦境であったのだ。しかも、その生き様は、クールな強靭さだけを漂わせるのではなく、熱く激しい思いの深さをも凛とした品格とともに全身に滲ませ、豊かな感受性で官能に身を焦がしさえする。あまりの申し分のなさに普通の男だったら、思わず怯んでしまいそうですらあった。特に七年のときを経て、結ばれた一夜から目覚めた朝に、これまで閉じ込めてきたものを一気に解放するかのように湖水に向かってあげた叫び声が切なくも美しくて心に残っている。

 それにしても、彼女だけでなく、チャールズや植物人間になった姉に代わって義兄チャールズに仕えた妹、さらには、快楽ばかりに人生を消費したと自他ともに認めるチャールズの父親でさえも、総ての人々にどこか背筋の通っているところがあるように感じられて美しい。生き方や思想、趣味、行いの善し悪しと単純には重ならない部分での人間の品格の高さというものが確かにあるのだという気がした。


 それというのも併映の『ワン・ナイト・スタンド』がそういう面で、人間の品格のだらしなさ、薄っぺらさというものを割り切れない後味として残していた作品だったからだ。運命的としか言いようのない出会いを重ね、限られた時間を生きる人間の人生のなかで、よりよき自分を生きたいという思いに抗いがたく…ってなはずが、ちょうどいい具合に配偶者交換をすることで上手くおさまるというオチでかたがつく、いかにも現代風の作品だ。黒人男性と東洋人女性の夫婦が白人男女の夫婦とそれぞれの不倫の結果、真の伴侶と巡り合えたと納得して配偶者交換をする結末は、ほんの少し前でもアメリカ映画として成立しようもなかったのではないかと感心したが、問題なのは、この作品では、描かれた情熱や選択への葛藤に切実さや重みが宿っていなくて何とも軽いのだ。

 主人公たちは決して享楽的でルーズな快楽主義者としてキャラクター造形されているわけではない。むしろ、その反対の人間像として描かれているだけに、結果的に浮かび上がってくるだらしのなさという印象に大きな意味があるような気がする。品格のある人間を描くには、百五十年も遡らないとリアリティがなくなるくらいに、現代では個々人の次元を超えたところで、人間の品格が卑しくなってきているのだろうという気がして仕方がない。この作品に窺われる人間観や人生観は間違っているとは思えない。むしろまっとうだと思えるにもかかわらず、美しさが感じられなかったのは、そういうことだったのではなかろうか。




推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/fucinemaindex.html#anchor000257
by ヤマ

'99. 7. 3. 県民文化ホール・グリーン



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