『アシッドハウス』(The Acid House)


 何とも毒気に満ちた強烈なオムニバス作品だった。原作がかの『トレインスポッティング』と同じアーヴィン・ウェルシュ。『トレスポ』では映像作品としてのビート感覚が強烈で監督のダニー・ボイルを印象づけたが、それを支えていたのは紛れもなくウェルシュだということを、『ビーチ』のふがいなさと『アシッドハウス』の強烈さによって再認識させられたように思う。
 どれもこれも本当にろくでなしばかりが登場する話だ。スコットランドの貧民層には、生きる拠りどころがサッカーとドラッグとセックスと音楽しかなくて、それも恐ろしく身勝手に感情的で生理的な率直さのみで享楽しているという姿が実に身も蓋もない形で描かれる。いささかの夢も憧れも完璧なまでに排除していて、こういう人物像を次々と目の当たりにしていると、何だか自分も人間であることに嫌気がさしてくるほどだ。およそ感情移入できる人物など一人も登場しない。通常の劇映画では感情移入を誘うように描くであろう人物たちから、そういった部分を徹底的に排除することである種の凄みが浮かび上がってきているのだが、それでいて突き放していたり、批判的視線を注ぐのではなく、彼らの現実を率直に語っているように見えるから、その救いのなさに観ていてよけいに身の置き所がない感じがする。
 オムニバス構成としては、第一章「ザ・グラントン・スターの悲劇」と終章「アシッドハウス」に飲んだくれの非力でみすぼらしい“神”が登場していて、真ん中の第二章「カモ」に神も及ばぬほどのパトス(受苦)を体現しているジョニー(ケビン・マクキッド) を置いている。全編通じて浮かび上がってくる人間の救いのなさは、第一章であっけない死という形でしか結末を見ないボブ・コイル(スティーブン・マッコール)以降は、かすかな希望を窺わせるものの、果たして救いと呼び得るものか、およそ怪しい限りのものでしかない。一言で言えば、やはり病んでいるというしかない人間の現実と社会の状況があるように思う。
 第一章「ザ・グラントン・スターの悲劇」で登場するボブの両親である老夫婦の繰り広げる倒錯した性行為や第二章「カモ」のジョニーの妻が愛人に仕込まれるアナル・コイタス、第三章「アシッドハウス」の幼児プレイもどきや母子相姦的隠喩などには、密かにクィーアな愉しみを見いだすことを、観る側に安易には許さない殺伐さと不快さが漂っていた。一日にして総てを失ったボブの意趣返しの仕方もおよそ美学とは対極に位置する趣向だ。ジョニーが体現するパトスには徹底した情けなさはあっても、いささかの美も輝きもなく、これをもって受容と寛容に満ちた至上の愛とするのであれば、そんな愛など御免被りたいと思わずにはいられない。ココ・ブライス(ユエン・ブレンナー) の味わうトリップ感覚にも奇怪な醜悪さはあっても、味わってみたくなるような超常性はいささかも感じられない。
 働く場がない、社会的自己実現を図る場がない、といったことが総ての原因ではないのだろうが、社会的にそういう可能性と希望の道が閉ざされていることによって射している影というものを色濃く感じた。三話とも実際性とは程遠い、とんでもない話でありながら、現実のなかに潜む真実性という点では、リアリティに満ちていて見事なものだと言えるのではなかろうか。
by ヤマ

'00. 7.12. 県民文化ホール・グリーン



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