『ザ・ディレクター[市民ケーン]の真実』(Spotlight) | |
監督 ベンジャミン・ロス
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僕などでも十年ほど前から今までに観たベスト・ワン映画は、などと訊かれることが多くなってきた。オーソン・ウェルズの『市民ケーン』は、そんななかでその都度まじめに悩むと答えが決まらなくなるので、あるときから挨拶アイテムとして決めてしまおうと選んだ作品だ。 昔の日誌には「実に magicalな映画である。息を飲むほどの凝縮力と牽引力とを持った映像、緻密でなおかつ大胆な構成力と深い人間洞察、そして、この作品が日米開戦の年に弱冠二十六歳の青年によって作られているという事実、その何れをとってもマジカルというほかはない。」と綴ってある。その当時、僕は主人公ケインが新聞王ハーストをモデルにしていたことを知らずに観て、ウェルズが自らを投影し、昇華した人物像だと思っていた。上映妨害も含めて後から聞かされ、そうだったのかと感心した覚えがある。 財力であれ、才能であれ、卓抜したものを持つゆえに、一般の人とは同じ地平に立てなくなる孤独と避け難いものとしての傲慢さや尊大さについて、ここまで鋭く深く、しかも最後まで容赦はしないが、けっして突き放したり、非難するだけではなく、ある種のシンパシーを捧げているスタンスの取り方に強く惹かれたものである。 今回“[市民ケーン]の真実”と触れ込んだ作品を観て、むろん脚色はあるにしても、ウェルズ(リーヴ・シュレイバー)とハースト(ジェイムズ・クロムウェル)の間には、互いにかなり生々しい剥きだしの感情的ぶつかり合いがあり、本人の意識としてもそういった側面が強かったことが窺えた。それにもかかわらず、結果的に撮り上がった作品としては、そういった生々しさよりも昇華度の高さのほうが優ったものとなっている。そういう意味でもウェルズの凄さを改めて思い知った。それは、半端な才能で宿る性質のものではない。 また、初監督作品としてどんな映画を撮るのかという周囲の期待と好奇の眼を、思った以上に意識しているウェルズのプライドと不安というものが、彼に殊更に傲慢で自分中心の言動を取らせていたように見える人物造形がされていて、けっこう納得のいくものがあった。半ば虚勢的にさえ見えたのだ。そういう点では、いかにも天才的なカリスマ性をいささかも感じさせないリーヴ・シュレイバーがウェルズを演じたのは、いいキャスティングだったと思う。 それにしても、本篇の『市民ケーン』で彼が息を引き取る間際に呟いた“rose bud”という言葉がハーストが愛人の秘処に名付けた愛称だったとは、僕は知らずにいただけに驚いた。これがもし本当だとしたら、それ以上に驚くべきなのは、そんな下種ネタを面白半分に使ったにしても、よりによってラストシーンに持ってきたことやそのうえで作品には露とも卑しさを漂わせなかった手並みの見事さのほうだ。 budには、芽の意も、蕾の意もあるようだが、『市民ケーン』では子供のときに遊んでいたソリに薔薇の蕾の絵があったから、もっぱら蕾だと思っていた。でも、本来は蕾じゃないほうの意だったものを巧妙にすり替えたようにも思えてきて、まこと才気煥発というか、とんでもない奴だと呆れつつも、今まであまり作り手の若さを意識させられる余地がなかった『市民ケーン』に不遜な若さを見つけたようで愉快だった。 | |
by ヤマ '00. 11.30. 銀座テアトルシネマ |
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