『救命士』(Bringing Out The Death)


 普通の人々にとっての非日常が日常となっている現場に身を置いていると、やはり心が病んでくるのだろうなと改めて思う。医療現場のなかでも、そういう意味では最前線に送られている兵士とも言える救急救命士は、最もその危険が高いのかもしれない。病院という限られた場のなかでの自分という形の意識の切り替えがしにくいのは、路上や屋内という生活の場と病院という医療の場を繋ぐ彼らの職務自体に宿命づけられたものだと思う。
 だが、この映画を観ていると、救命士フランク・ピアーズ(ニコラス・ケイジ)に限らず、みんなどこか壊れているような気がする。思えば、アル中、ヤク中、自殺願望者、を含め、救急医や看護婦、警察官にしても、だれ一人穏やかな日常を過ごしている者はいないのだから、当然と言えば当然なのかもしれない。
 現実にフランクのような形で精神が追いつめられる人は、医師以上に救命士や看護婦に多いのではないかという気がする。そういう職に就こうとする者に、本来その職が求めている高い技術とモラルでもって“人の命を救う”という崇高な使命感を抱く者の割合が相対的に高そうな気がするのは、報酬の割に仕事がきつく厳しいものであることが判っていても、職としてそれを求める動機づけとして、その使命感が大きな要素になっていそうに思うからだ。そのことは、この作品でも「人の命を救うことは、麻薬にも似た快感がある」といった露悪的な言葉で語られるが、同僚から「お前はマジメすぎるんだよ」と言われるフランクであればこそ、何か月もの間ただの一人の命も救えていないなかで精神が追い詰められてくるのだろう。
 しかし、この作品は、真摯な救命士がどのようにして追い詰められていったかを観ている側の共感ないし納得できる物語として綴ろうとしたものではない。むしろ、追い詰められた精神の救いのなさの状況を身も蓋もなく、場合によっては露悪的とも言えるほどの切実さで描写することに力点を置いている。そのことによって、肉体においても魂においても“人間というものの救いのなさ”を主題としているように見える。 実際、この映画を観ていると、フランクたちが救おうとしている人々は、命のある人間だからということ以上には、およそ救うべき理由や同情ないしは共感を誘う人物像ではない。主人公たち救命士や医療スタッフにしても、彼らにある種の偶像を押しつけることを断固として拒否している。このあたりは、自らも救命士であった原作者ジョー・コネリーの面目躍如だろうし、いささかの甘さもないところがスコセッシ&シュレイダーのコンビにふさわしくもある。
 それにしても、徹頭徹尾、暗い映画であった。ニコラス・ケイジは、元々華やかさのある俳優ではないし、その声も陰欝だ。それ以上に、メアリーを演じたパトリシア・アークェットは、いかにも暗そうな薄幸顔だし、声質も重い。ラストシーンで、寄り添った二人に一際明るい光が射したからといって、何らかの救いを感じられるようなオプティムズムは宿ってはいなかった。これが現代のニューヨークの真実を掬い取っているのなら、とても住みたくはない街だ。
by ヤマ

'00. 9.14. 県民文化ホール・グリーン



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