『アメリカン・ヒストリーX』(American History X)
監督 トニー・ケイ


 差別というよりも、人種間に横たわる不信と憎しみの根の深さや断ち切り難さを痛烈に描いた作品として、僕にとっての頂点は、スパイク・リーのドゥ・ザ・ライト・シングであったが、それに匹敵するような強烈な作品だった。怒りと憎しみに狂気を滲ませた荒んだ顔と得も言われぬ優しい笑みを湛えた仏顔。エドワード・ノートンが表情を越えてオーラとして発散させる存在感は圧倒的で、演技力の域を越えていた。なかでも、デレク(エドワード・ノートン)の発した「あんまりだ…」の声には、観ていて思わず鳥肌が立った。

 それにしても、技術や知識ではなく、価値観、美意識、世界観といったものについては、人が教えによって得るものはほとんどないのだということをつくづく思う。自らが、知り、学ぶことでしか、人は何も得られない。教わるというのは、知り学ぶという営みに付随する結果の裏返しの表現でしかない。人種で括って怒りと憎しみをぶつけることの理不尽さとか、怒りと憎しみでは何の救いも得られないといったことは、いくら教えられても教えられて解ることではなく、知り、学ぶしかないのだ。それが書物でも可能なだけの想像力を備えた者がいたり、デレクから学ぶ弟ダニー(エドワード・ファーロング)のように敬愛する者の言葉や姿として目と耳で確かめる必要があったり、さらにはデレクのように身体でもって身に染みて体験する必要のある者など、さまざまなのである。そして、それは優劣の問題ではなく、知性の違いでもないことが、デレクを観ているとひしひしと伝わってくるところがこの作品の見事なところだ。

 三年間の服役生活で、屈辱にまみれ、恐怖に脅え、黒人との奇妙な友情に出会うことで多くを学び、目覚めたように見えるデレクだが、ダニーの分析として語られるように「彼が白人至上主義の活動にのめり込んでいったのは、父親が黒人に殺されたことがきっかけだと言われるが、実はそんな単純なことではない」との言葉によって示されるエピソードが重要で、同様に彼の更正もまた、刑務所生活によってと言えるほどに単純じゃない。
 デレクの家庭は、人種的偏見を積極的に顕在化しようとするわけではないが、根深く持っている、あまり教養のない父親と一家を養ってくれている夫よりも自分のほうが教養があることに遠慮をしている妻で、人種的偏見を持たないながらも、その解消に積極的に取り組みはしない母親の作ったごく普通の家庭だ。彼らはともに同じ人種のようだから、家庭生活を営むうえで、このテーマが表立って問題化することはなかっただろう。だが、子供のデレクには、その両方がともに下地として準備されている。レイシズムを強烈に体現したデレクも出所後に淋し気に慈愛あふれる包容力で家族を守ろうとしたデレクも、それぞれ父親と母親の持っていた世界を極大化する形で受け継いだものだ。

 デレクのような形で父親を失ったり、服役生活を体験することは、万人に降り掛かってくることではない。しかし、それ以前のデレクが置かれていた状況、つまり根深い人種偏見とそれを克服すべきものと考える人権思想が意識的に健在化しない形で、ないまぜのまま心の深いところに澱のように溜っている状態というのは、万人に共通している。その年月を掛けた長い蓄積は、故なきものではなく、それこそがアメリカン・ヒストリーであって、誰も逃れられない。

 服役中の三年間で対立の激化した白人至上主義集団と黒人グループがカリスマ的主導者だったデレクの出所を契機に抗争に突入することは、全く以てありそうなことだから、彼の変化を知らない黒人グループが深夜の巡回で彼の家をマークするのも当然だし、機先を制する形で“恐るべき”デレクに最もダメージを与える攻撃を仕掛けたという意味では、「あんまりだ…」と嘆くしかない仕打ちを受けたのは自らが招いた部分でもある。

 しかし、父親の殺害に怒りと憎しみの爆発で応えたデレクは、もはや同じ轍は踏めなくなっている。教えられたことではなく、自らが知り、学んだことというものは、そういうものであるはずだ。鏡に映った自分の左胸に拭えぬ刻印として存在する鉤十字の入れ墨に手を当てて、深い哀しみの眼差しで見つめていたデレクだから、元のレイシスト集団に帰ることもできないし、また、浜辺で無邪気に兄弟で戯れていた、まだアメリカン・ヒストリーにまみれることもなかった幼き日々に帰ることもできない。「あんまりだ…」というデレクの痛切な声には、単に受けた仕打ちへの感情的な叫びではなく、行き場のない地点に立たされたという状況、こんな苛酷な歴史を背負わされた世界に生まれ出てきていることを思い知るといった「知と学び」の響きが篭もっていて、まさしく魂の深みから発せられたものだったから、僕も思わず鳥肌が立ったのだと思う。

 こんなにも重く強烈で見事な結末が待っているとは思いもよらなかった。出所したデレクが帰宅して、どこか明鏡止水の面持ちで穏やかな抱擁を家族と繰り返している姿にある種の覚悟を感じ取っていたのだが、あまりに繰り返し描かれているのを観ているうちに、彼に死の影を感じたのだった。覚悟とは即ち、自らが先導する形で勢力拡大をしてきたレイシスト集団からの脱会と弟ダニーの説得だったのだが、抗争へと発展するのを防ぐために恩師と警察の依頼を受けて、自分たち兄弟が脱会するだけでなく、みんなを説得する役割を負ったとき、ほぼ確信するように僕は、デレクが父親と同じように黒人に殺されると思った。そして、父親の死がデレクにもたらしたものとは異なるものを彼はダニーに残していくのだ。デレクから学ぶことで部屋に飾ってあったナチスの旗や写真を一緒にはずしたダニーであればこそ、デレクと同じ轍は踏まない。「知と学び」による目覚めが、ダニーにデレクの過ちを繰り返させずに守ってくれたのだ…。そういう結末を思わず予想してしまっていた。

 ところが、そんな甘い展開ではなかった。何かを残して死んでいくことなんぞより遥かに苛酷な試練がデレクを見舞った。彼の嘆きにつられて思わず僕も「あんまりだ…」と鸚鵡返しに内心で呟いたのだが、自らの浅はかな予測を恥じ入りつつ、これは凄い映画だといささか興奮していた。




推薦テクスト:「Fifteen Hours」より
http://www7b.biglobe.ne.jp/~fifteen_hours/X.html
推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2000/2000_03_27_2.html
推薦テクスト:「This Side of Paradise」より
http://junk247.fc2web.com/cinemas/review/reviewa.html#americanhistoryx
by ヤマ

'00. 9. 7. 県民文化ホール・グリーン



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