『ストレイト・ストーリー』(The Straight Story)


 これまでのリンチ作品で最も気に入っていたのはブルー・ベルベットだったが、それと双璧をなすお気に入りの作品となった。

 デヴィッド・リンチというと、人間の危なさやダークサイドを捉えた面ばかりが強調され、評価されてきた感が強いのだが、僕はむしろそういう部分に対する関心の強度の高さに比例して、それでもなお病的だとか変態的だとかいった印象を残さない、彼の精神の健全さや大きさにかねがね感心していた。十三年前に『ブルー・ベルベット』を観たときの日誌に…穏やかさと激しさ、平和と闘争、優しさと凶暴さ、それらは互いに遠くにあるものではなく、隣合わせていたり、裏表であったり、或は混在しているということなのだろう。それは何も改めて言うまでもないほど当然のことであり、立体的で厚みのある現実なればこその陰影であって、現実それ自体にとっては等価のものである。そこに黒白を付けて善とか悪、正常とか異常とか言ったりするのは、各人の美意識や価値観の問題にすぎない。…と綴ってあるのは、リンチの眼差しがまさしく等価のものとして向けられていると感じたからだ。であればこそ、一般に強調され、評価されている部分がそれだけ強いインパクトを持っているということは、同時にそれに見合うだけのバランスでもう一方の部分を強く持っていることになる。それが即ちスケール感のある健全さということだ。健全さというのは健康とも似ていて、全くの無菌状態で育つことや一度の罹病体験もなく育つことが健康をなし得ないのと同じことだ。そういう眼で観るとこの映画は、これまでの作品でも確かに窺わせていた、もうひとつの側面をたまたま全面的に開放する形で作品化したものだと言える。

 アメリカの大地の広大な風景描写が漠として広がる人生そのままに、単純な相貌のなかに微妙な揺らめきを湛えていて絶妙だ。ささやかな出会いとささやかなトラブルに見舞われながら、ゆっくりと確実にゴールに向かいつつ、どこまで行けるのかも判らない歩みを続ける時速8kmのトラクターの旅も人生そのものだ。そして、何よりもアルヴィン(リチャード・ファーンズワース)の味のある顔と存在感がたまらなくいい。年齢を重ね、相当の年輪を刻むことへの憧れすら誘う。歳を取ることの美しさをこれほど力強くシンプルに、そしてまさしくストレイトに描いた作品は、めったにあるものではない。

 いくつか挟まれる善意を基調としたエピソードの質も量もほどよく申し分ない。元就の三本の矢そのままの説話もアルヴィンじいさんの語り口だと何の嫌味も生じてこない。歳を取って一番辛いことは、と若者に訊かれて今だに若い頃のことを覚えていることだと答える一方で、同じ老境の身にある者には誰もが昔のことをあんなことなどなかったかのように忘れていっているとぼやく。バーのカウンターで相方を務めていた男は、その言葉にぎくりとしたように、自分はそちらの側ではないと証明に努めるがごとく、自らの参戦体験を語り始めたりする。

 アルヴィンじいさんの、来し方に悔いと諦めを滲ませながら、潔く引き受けることが自然体として身についた老境の渋みとかっこよさが味わい深い。

 ちょうど、これまでの作品が人間のダークサイドを前面に出してきながら、それとのバランス感覚を窺わせることで、作り手の精神に健全さを感じさせていたのとは対照的に、善意を基調とした出会いのエピソードのなかに時折そういうふうに闇の部分をしのばせている。これは言わば常識的な手法なのだが、どちらかというと逆のやり方で“人間とは”ということを投げ掛け続けてきたリンチだからこそ、世間がリンチ監督の180度転換といった言い方をしたのだと思う。

 夜空が美しく、畑が美しく、音楽が美しい。そのいずれもがシンプルな輝きに満ちていて、こういうものに時間を掛けて包まれていると本当に心身が浄化されていくような気がした。その意味では、フレーバーの異なるドラッグ・テイストとさえ言えるわけで、やはりリンチ映画ならではの映画体験であるように思う。



推薦テクスト:「Fifteen Hours」より
http://www7b.biglobe.ne.jp/~fifteen_hours/Strsight.html
by ヤマ

'00. 7. 3. 松竹ピカデリー1



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