『ブルー・ベルベット』(Blue Velvet)
監督 デヴィッド・リンチ


 あざとさが多少気にはなりながらも、それゆえに結構効果的とも言える演出と映像によって、かなりの牽引力を持った作品となっている。ファースト・シーンの庭で男が芝生に水を遣っている、明るく長閑な情景とバックに流れる甘く伸びやかなブルー・ベルベット』の歌声から連続して、男が発作に倒れ、ホースから水が迸り、さらに芝生の下の地中で蟻が闘争している場面が映し出される。そして、平穏な日常のなかにいた青年ジェフリーが足を踏み入れる、犯罪と暴力、ホモやSMの世界がそこから始まる。穏やかさと激しさ、平和と闘争、優しさと凶暴さ、それらは互いに遠いところにあるものではなく、隣合わせていたり、裏表であったり、あるいは混在しているということなのだろう。それは何も改めていうまでもないほど当然のことであり、立体的で厚みのある現実なればこその陰影であって、現実それ自体にとっては等価のものである。そこに黒白をつけて善とか悪、正常とか異常とかいったりするのは、各人の美意識や価値観の問題に過ぎない。

 この作品は、ファースト・シーンからラストの愛を象徴した駒鳥が虫けらを銜えて現われるシーンまで、一貫してそういった現実認識と人間観を貫いているが、主題的にはそれ以上の踏み込みはない。それゆえ、題材の本質的に持っている奥深さの割には、作品に奥行がないような印象があるが、リンチがこだわったのは、そういったテーマ的なことではなく、本来きわめて正当で当然のことでありながら、通常追いやられているこの現実認識と人間観を忠実に感覚に訴える表現のほうなのである。そのために物語の事実関係とか登場人物の心理描写とかいったことについては、かなり御座なりにしている一方で、色調、光と影、場面設定といった映像や音楽、あるいは人物キャラクターといった感覚に訴える部分については、なかなか凝っている。実際、リンチの言わんとすることには、さほど新鮮さを覚えないのに、場面や映像に対して、次は何がどう出てくるのか、次は何がどう出てくるのかという期待と緊張でもって最後まで惹きつけられてしまう。それは感覚的ではあっても、耽美と頽廃とか官能と倒錯とかいった一つの言葉で表現できるものではなく、思えば不可思議でもないことなのに、眼の前に現出されると何らかの異様さを感じることによって、思いの外、自分が通俗的な調和感覚に侵されていることや自分のなかの観念と生理に隔たりがあることを自覚させられるために起こる奇妙なジレンマのような感覚であり、嫌悪とか陶酔をもたらすようなものではない。そういう意味では、感覚に訴えながらもクールな作品である。

 この作品が、そのような奇妙な味を持ち得たのには、ドロシーを演じるイザベラ・ロッセリーニの痛ましいまでの熱演とフランクを演じるデニス・ホッパーの異様な存在感に負うところが大きい。オープニングの甘く伸びやかな歌声とは対照的に、キャバレーでドロシーが、ねっとりと官能的に『ブルー・ベルベット』を歌うシーンと麻薬密売と売春宿の元締であるホモのベンが、テープから流れる甘く明るい歌声に合わせて歌真似をし、それにフランクが陶酔するシーンには、それぞれ違った感覚で、ぞくっとさせられる。




推薦テクスト:「たどぴょんのおすすめ映画ー♪」より
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/4787/e/g222.html
by ヤマ

'87. 9.21. 名画座



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

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