『ワイルド・アット・ハート』(Wild At Heart)
『アタメ』(ATAME [Tie Me Up ! Tie Me Down !])
監督 デヴィッド・リンチ
監督 ペドロ・アルモドバル


 『ブルー・ベルベット』で、ぞくりとするような妖しい感覚に魅了された記憶が過剰な期待を抱かせたのか、『ワイルド・アット・ハート』については、物足らない印象が拭えなかった。描いているものが、その一見過激で露骨に見える表現とは裏腹にこちらがいささか恥ずかしくなるような一途な愛への讚歌だったりするからなのかもしれない。今、純愛を描こうとするならば、この作品がその原形として彷彿とさせる『ボウイとキーチ』を思い起こすまでもなく、いかにもそれらしい純愛世界を現出することは決して効果的ではない。時代には、それにふさわしい表現形態というものがある。ペドロ・アルモドバルの佳作『アタメ』もそうであるように、その点でリンチが時代を見誤っているわけではない。現にこの作品は、賛否両論があったとはいえ、カンヌ映画祭でグランプリを取ったそうである。しかし、リンチ監督に期待するのはそんな不健全なほどに健やかな愛の世界ではない。『ブルー・ベルベット』で観せてくれた、あのクールで危ない感覚とそれが人間や現実の本質であることを掴む直観力はどこへ行ってしまったのであろう。一見した以上の過激さも露骨さもないのはまだしも、危なさが全く影を潜めている。これでは期待外れとしか言いようがない。

 逃避行のさなか、カー・ラジオのどこに合わせても殺しや騙しのニュースしか流れてこないのにイラ立ち「音楽はやってないの、音楽は!」と叫び、ルーラが車の外へ飛び出すシーンがある。まともで感じやすい心を持つ若者なればこそ、ミュージック、ダンス、セックスでしか心が癒されないのが今の現実なのかもしれないとでも言うのであろうか。リンチ作品から、そんな安っぽいメッセージをそんな安直な表現のなかで受け取りたくはないのである。映画の始まった頃、どちらかというと野暮ったくて鈍臭く見えた二人が、最後では力強くて晴れがましく見えてくると、それはそれで良いのかもしれないが、『ブルー・ベルベット』をもう一度観直して、愛を象徴する小鳥が虫けらを銜えた形で登場するラスト・シーンと『ワイルド・アット・ハート』の気を失っている間の幻として現われる「善い魔女」が与えてくれる愛の啓示とを比べてみたくなる。どちらが表現として優れているかは言うまでもない。

 一途な愛を描いたものならば、同じ時期に観たアルモドバルの『アタメ』のほうが二人の間に駆け引きや心の動きが窺える分、面白く観ることができる。また、映像としてのインパクトも俳優の魅力も『アタメ』のほうが断然優れている。アルモドバルは、夥しいほどのキッチュな感覚に満ちた装置(緊縛、麻薬、手錠、ポルノ女優、精神病院、かつら、つけ髭、マッチョ、ホラー、etc)を鮮やかに捌いてピュアなラブ・ストーリーに転じていく。それに成功したのは、リンチのように感覚の表現にこだわろうとするのではなく、あくまでラブ・ストーリーのピュアさを浮かびあがらせるための装置としてキッチュな感覚を利用しているからである。アルモドバルにおいてキッチュな感覚というのは、はなから、ピュアなものを表現するために必要な現代的な表現形態に過ぎない。キッチュとピュアという対極的な位相の持つ位置エネルギーは、その落差が大きいほど強烈なわけで、うまくいけば、そのインパクトの強さがそのまま作品すなわちピュアなラブ・ストーリーのインパクトとなって印象づけられるのである。しかも、『ワイルド・アット・ハート』と違って『アタメ』は相思相愛の二人の愛の讚歌ではない。迷い、恐れ、試み、獲得していく愛の物語である。同じ一途な愛ではあっても、高らかに歌い上げられる讚歌のような恥ずかしさは生じてこない。純愛的な世界の持つ盲目的に一途な閉じた関係性としての愛に対する懐疑は生じるとしても、一方で愛の夢とでも言うべき甘美さへの憧れをも確かに誘うのである。そこが『アタメ』の魅力であり、キッチュな感覚をうまく利用することによってアルモドバル監督は成功している。
by ヤマ

'91. 2.20. 有楽町ニュー東宝シネマ2  銀座東劇



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