『死国』
監督 長崎 俊一


 東宝の業務試写で、高知出身の直木賞作家である高校の同窓生、坂東眞砂子の初映画化作品『死国』を観た。

 オープニングの篠田昇のキャメラが、高知在住の大木裕之監督作品の優勝-ルネッサンスを髣髴させるような、鈍くやや澱んだ光と揺れ動く手持ちカメラで霊山石鎚やら高知の田舎の風景を映し出したので、いささか驚いた。併映予定が『リング2』というタイトルの映画であるのも奇妙な偶然と言えなくもないが、三者の間に連関の環を感じたのである。大木監督は『優勝』を撮る前に坂東作品を読んでいて、長崎監督ないしは篠田キャメラマンは、『死国』を撮る前に『優勝』を観たことがあったのではなかろうかと…。のどかな明るさの背後に只ならぬ妖しい気の漂う、土地柄の神秘と不気味さをさりげなく演出するのに、偶然似たような映像手法が採られたのだろうか。だとすれば、それはそれで実に興味深いことである。

 作品は、ホラーだと言われるが、やや不気味で神秘的ではあっても、恐怖を誘わないところがいい。死者の怨念が甦るのではなく、恋の思いの深さが無念を残しているだけだから、相手へのうらめしさや嫌味がなく、後味が悪くない。女の思いの深さや凄みを怖いという意味ではなかなか怖い世界ではあるが、そういう意味では土佐の女のイメージとして思い当たらなくもない女の強さというものが浮かび上がっている。

 『死国』においては、男の存在感など、女に必要とされる部分においてのみしか必要性が感じられないくらいに希薄なものでしかない。日浦照子(根岸季衣)にとって康鷹(大杉 漣)は、後継ぎ莎代里(栗山千明)を得るために必要だっただけのように見えるし、文也(筒井道隆)の存在も莎代里と比奈子(夏川結衣)に必要とされているから存在していただけのように見える。そもそも女にとっては、男の存在というのはそうしたものでしかないのかもしれないと思わせるところに妙に説得力があって、男の側として不満を覚えつつも不承不承納得させられていた自分があった。

 美しく都会的に洗練された姿で久々の帰郷を果たした比奈子と会った嘗ての級友である若奥さんの思いがけなくも無造作に酷薄な言葉掛けやら、莎代里と比奈子の関係と互いへの意識の仕方、あるいは異界の恐怖に脅えながらも逃げたり他人任せにしたりせずに自らの眼で確かめようと踏み込んでいく強靭さ。そういったことなどにも、女の強さと怖さが実によく描かれていて、それを前にしては男など太刀打ちできそうにもないことが身に染みてくる。そういう意味で土佐の女がよく描かれている作品で、さすがに女性作家の原作によるものだし、演出もそのあたりを充分意識していて成功している。

 しかし、これは女性から見ても男性から見ても、そう魅力的な女性像とは言えないのではないかとも思う。そういう点では土佐の国の風土も明るく健康的で豪快なといった「売り」のイメージとは程遠いもので、それでいて妙に説得力があるから、これまた逆にあまり好もしいとは思われないのではないかと感じたりするのだが、坂東女史(そう言えば、高校時分から彼女にはどこか不気味でおっかないイメージがあったように記憶している)の地元佐川町での先行ロードショーでは、熱烈な支持を得たらしい。しかし、彼女は隣県香川の善通寺での上映会には参加していながらも故郷の上映会には出席していなかった。特に意図が働いたわけでもなく、単なるスケジュール上の問題なのだろうが、双方がそういうところに恬淡としているところが高知らしくもある。

 そういう彼女のこういう作品が地元で支持されるという点で、やはり土佐の風土というのは、どこか奇妙で不気味なところがあるという気がしないでもない。地元からとはまた違った眼には、この映画がどういうふうに映っているのだろうとふと思った。




参照テクスト:坂東眞砂子『山妣』読書感想文
by ヤマ

'99. 1.19. 東宝3



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