『セントラル・ステーション』(Central Do Brasil)
監督 ヴァルテル・サレス


 街頭売りのパンケーキか何かをかっぱらっただけで射殺されてしまったり、孤児が臓器移植の密売のために人身売買されたりといったことがおおっぴらにおこなわれるような国で、代書屋がことづかった手紙を出さないで金だけ懐に入れるなんてのは大した罪とは言えないのかもしれないが、数多の文盲の人たちが代書屋に言付けてまで伝えたかった思いの丈を無造作に葬り去ることがいささか許し難く、前半は妙に馴染めなかった。

 しかし、ドーラがジョズエ少年にふと漏らした父親との間の散々な記憶つまり、16歳のとき何年振りかで偶然出会ったのに、全く気づいてもらえずに「何処かで会ったことがあったかね、お嬢さん。」と言われて深く傷つき、名乗ることもできずに立ち去ったという記憶を語ったとき、ハッとさせられた。

 子供から見た大人の姿は何年経っていても大して変わっていないが、特にあの年頃の女の子の見た目の変化には大きなものがあり、何年振りどころかほんの数年でも見違えてしまうものなのだから、幼い時分から会ってなければ気づけなくても仕方がない面もある。だが、16歳の少女にそんな自覚があるはずもなく、自分の存在が完全に忘れられているようにしか受け取れず、深い傷を負ってしまったのだろう。その傷は、負わされた事情がやむを得ないものであったことを仮に後に理解しようが、負わせた相手に悪意がなかったことを承知しようが、そんなことで解消する類のものではない深くて辛い傷なのだ。そして、初老と言える年になった今でも鮮明な記憶として残っている。切実に必要とし、求めた愛が得られなかったことへの怒りと失望というものが、その間、内部に堆積沈殿しつづけ、その負のエネルギーの蓄積が無自覚な八つ当たりとして、代書を依頼してきた文盲の人たちの手紙に向けられ、自分の味わったディスコミュニケーションを彼らに与えることで、その不幸が自分だけのものではない状態を作ろうとする代償的な思いが、無意識のうちに働いていたのだろうという気がしてきた。

 そう言えば、ジョズエとドーラの会話のなかにおいても互いのことをいつか忘れる忘れないのやりとりが、けっこう重みをもった形で何度か交わされていた。他者の記憶のなかにおける自分の存在感、それこそが生きていることの手応えであり、生きた証として人が人に求めるものなのだろう。自らの心象風景や記憶に揺るぎない形で存在し、決して消え去ることのない人物像を何も持たないという人はいないのに、その相手の記憶における自分の存在のほうには、総ての人が確信を抱けるわけではなく、心許なさや頼りなさへの不安から逃れられない人が少なからずいる。それは、ドーラやジョズエ少年のように親との絆において深い傷や強い不安を体験させられたからなのかもしれない。

 この映画を観て、ふとどきな代書屋稼業をしているドーラがジョズエをほおっておけずに家へ連れ帰ることにリアリティを感じられるかどうかは、幼くして親を失った境遇というものに、ドーラがどれだけ傷つき縛られていたかを理解できるかどうかに掛かってくる。ドーラがジョズエに最初に語った父親の記憶を聴いて前述のような感慨を抱くまで、僕のなかには、人物像としてのドーラについて違和感が拭えなかったのだが、そのような理解をしてからは得心がいったような気がした。

 だからこそ、ラストでドーラがもう一度父親に会いたいと願い、やり直したいと思ったことの切実さが伝わってきて、しんみりしてしまったのだ。初老と言えるほどの年まで未解決の人生課題として持ち越し続けたことが、こんなふうに捉え直せることも、ジョズエ少年との出会いと関わりゆえに起こり得たことである。それは、二人の間では、相互依存という点で不思議と対等な二者関係であったからかもしれない。そもそも彼女の不幸は、その年になるまで、そのような人との交わり体験を得られなかったことにある。それでも、出会えぬままに人生を終えることなく、こうして出会えたのだから、人にはいくつになっても可能性が開かれているとも言えるのだ。

 それにしても、愛情関係において、必要とし、求めたときに満たされなかった愛情飢餓による受傷体験について、自身の課題として立ち向かうエネルギーというものは、当事者関係のなかで生み出されることが絶望的に不可能なのだなということを改めて思った。最近そのことを思い知らされたような気がしていたところだったので、ジョズエ少年との出会いまで、ドーラが父親との関係性の捉え直しができなかったのは、よく解る気がする。力関係のなかだけで受けた傷と違って、愛情問題のなかで受けた傷の根深さと尾の引きかたというのは、その愛情が深ければ深いほどに、人生の長きにわたってその人の課題となってしまうのであろうが、それはむしろ当然のことなのだ。
 ドーラが朗読してやった、ジャズーズが代書屋に書かせた手紙には、本当にジョズエのことを書いてあったのだろうか。ドーラに切に父親に会いたい、やり直したいと思わせたのは、彼女にとってのまさしく奇跡の言葉として、それと出会えたからこそだとも言えるし、ジョズエ少年が尋ねたように、ドーラがジョズエへの心遣いとして書いてなかったことを読んだと言えなくもない。少年との関わりのなかでドーラが与えられた生きる活力には、それだけのものがあったように思うから。

 ドーラにやり直したいとまで願わせた直接的な動機づけが、ジョズエの父親ジャズーズの手紙にあったと観るか、父親を求め続けるジョズエの姿や失踪した父親に対して相反する感情整理を見せるジョズエの異母兄たちのなかにあったと観るかは人それぞれだが、僕としては後者を採りたい気がする。父と子の関係というものは選択の余地のない唯一無二のものであって逃れようもないものなればこそ、自らやり直すしかないことを悟り、またそれに向かうエネルギーも与えてもらったということであって、子供が知らずにいる父親の思いについての確証が得られる可能性の有無ということではないように思う。
by ヤマ

'99. 6.24. 松竹ピカデリー3



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