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『天国の六つの箱(HEAVEN―6―BOX)』
『優勝―Renaissance―』
監督 大木裕之


 三月三日に県立美術館ホールで大木裕之監督のベルリン国際映画祭招待出品記念特別上映会が開催された。『天国の六つの箱(HEAVEN―6―BOX)』と初公開の新作『優勝―Renaissance―』である。

 私が『天国の六つの箱(HEAVEN―6―BOX)』を観るのは、二度目になる。ちょうど一年前の三月五日に高知県立美術館の企画展クールの時代≠フ出品作品としてセント・ハミンゲンの即興演奏と共に上映されていたからだ。この作品は、「美術表現における平面、立体、素材等の枠組みを超えた作品が、展示されるその場所と混血し、また様々な作品が併置されるその状況のノイズ・ミュージックのような不協和音から、新たな美術館と作品の関係を模索しようとする試み」として企画された展覧会のために美術館プロデュース作品として誕生した。今回上映されたものは、そのとき披露された、即興演奏と共に上映されるための映像作品ではなく、再編集され、固定された音楽を定着させた同タイトルの別作品である。
 私がここで同タイトルの別作品と言いきってしまうのを大木監督がどう思うか図りかねるが、観た印象では全く別ものと言えるのではないかという気がする。美術のノイズ・ミュージックというコンセプトのもと、大木監督に製作依頼がなされたと聞いたとき、『遊泳禁止』や『七月の思想家』を観ていた私は、彼の映像感覚にはノイジィな肌ざわりがあると思っていたので、ちょうどいい企画だと思った記憶がある。そして一年前、ある種の予想と共に観てすっかり裏をかかれたような気がした。『七月の思想家』とうって変わって彼の捉えた高知の映像がやけにクリアであるのに驚いた。『七月の思想家』を観たときには、からっとして光の強い高知の夏を撮って、こんなに沈鬱でノイジィでいながら高知に住む者が観て高知らしく思える捉え方に興味を覚えたのだが、今度は、そうではなかったのだ。また、自分探しというか青年のセルフ・アイデンティティの模索といったものがストレートに表現されていたように思う『遊泳禁止』で強い印象を残していた、手触りを確かめるようになぞりまさぐる手の動きから彼の映画は手の映画だと勝手に思っていたところが、一年前の『天国の……』では、手があまりインパクトを持たず、映画としてはいかにも当たり前の目や視線が印象に残るという作品になっていて、ずいぶん変わったなという印象を持ったのだった。そして、六つの箱を開いていくたびにクリアな映像がノイジィになっていくどころか、実際に映像そのものにノイズをかけて、果てにはノイズどころかフォーカスをずらして鮮明な像を結ばせない箱を開いて終わるという、わかりやすく面白い効果もあげてはいるが、あまりにも構成的なつくりにいささか不満を覚えた。
 しかし、それはあくまで美術のノイズ・ミュージックというコンセプトの展覧会のための出品作であって、その後、独立した映像作品として再編集されたものは、そういう構成的なつくりはすっかり影を潜め、それ故、六つの箱の六つの箱としての必然性も希薄にはなったが、最初のヴァージョンには見いだせなかったヴィジョンを現出してくれたように思う。それは、端的に言えば、土地の営み、人の営みといったものが虫の営みも含めて生き物の営みとして浮かび上がってくるようなヴィジョンであり、しかもいわゆるドキュメンタリーのような、対象化やそれとは逆の踏み込んだ関係性の相互作用といったものや、ある種の問題意識などとは異なる自然で緩やかな関係性の中に浮かび上がってくる営みであり、『七月の思想家』以前の作品で私が観た作品では見いだせなかった類のものだった。それは、いわゆるドキュメンタリーフィルムのような社会性を感じさせるものとは異なり、もっとパーソナルな肌ざわりを与えつつ、いわゆる個人映画にはない土地の広がりを感じさせてくれるような気がする。また、手の映画が目の映画になってしまったという私の身勝手な失望も手の映画に戻るという回帰ではなく、手と目の映画として再生するという満足を与えてくれた。そして、この感覚は、より明瞭な形で今回の新作に引き継がれているような気がする。

 今回披露された『優勝―Renaissance―』は、自然で緩やかな関係性の中に営みを浮かび上がらせた大木監督が営みの底に潜む、土地の持つ神秘、夢、幻といったものを模索しているように見える。これはなみなみならぬ、その土地と底に息づく生き物への惚れ込みようだと、観ていてうれしくなる以上にいささか興奮を覚えた。その模索を表現するうえで、これまでにはない映像処理をさまざまな形で多用している。そういう点では、無編集で撮ったものを撮ったままに見せるというある意味では、異様なテンションの高さをみずからに課する方法論によって映画づくりを始めた大木監督が高知という土地から受けた刺激によって変化し、『天国の……』で編集のマジックを見せつけると共に映像の加工にも意欲を見せ始めた流れのもとに今回の作品はあるとも言える。
 しかしながら、いわゆる実験映画的な印象をほとんど与えないところが興味深い。それは被写体となる対象の作り手にとっての意味が違っているからだと思う。ある種の映像的な効果を試みるための素材として被写体があるのではなく、対象との関係性のイメージとして映像が選び取られているからであろう。もちろん、実験映画的な作品においてもそういったことは言えるのだけれども、どちらの比重が大きいかでいわゆる実験映画的な印象が強くなるのかどうかが分かれてくるような気がする。
 こういった面では、大きな変化を見せたように思う作品なのだが、模索という点では、久々に『遊泳禁止』のような率直な模索が感じられたようにも思う。
 ただ、今回上映されたものをもって『優勝……』だと思っていると、先の『天国の……』の時と同じ目に合わされそうな予感がある。ルネッサンス(再生)とは、いかにも意味深長なタイトルだ。上映される度に姿かたちを変えて生まれてくる作品を創ったのじゃないかと思うのは、穿ち過ぎだろうか。

 それにしても、高知でのこの三年間の大木監督の活動と彼を取り巻く状況というものを振り返ると、アーティスト・イン・レジデンス(AIR)というものの持つ意味が確かに検証されるようで興味深い。AIRとは、異文化との遭遇であり、端的には、自己の再発見と他者の再認識であり、そこに創造のエネルギーが生まれるという主旨のことを美術評論家の南條史生氏が書いていたが、その相互性と波及効果の大きさでは、いわゆる美術よりも映画、それも大木監督のようなスタイルの活動は、特段のものがあるように思う。映画に登場する現代美術作家の高崎元尚氏が昨年、今更ながらの高知県文化賞を受賞した際のコメントで、これからは映像や音楽も視野に入れた活動に取り組んでみたいというようなことを述べていたように思うが、これは大木監督との出会いなくしては考えられないコメントであるし、当地の企業ジーンズ・ファクトリーには、CIに関わる影響を及ぼしている。おそらく、大木監督の作品に登場した数々の高知の人たちのうちの何人かは、確実にそれ以前と人生が変わっているのではなかろうか。思うに、これは大変なことなのである。
by ヤマ

'96. 3. 3. 県立美術館ホール



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