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『山妣』を読んで | |||||
坂東眞砂子 著<新潮社> | |||||
今年1月に急逝した高校の同窓生でもある坂東眞砂子の直木賞受賞作『山妣』['96]を、今ごろになって初めて読んだ。もう二十年近く前の刊行になるわけだが、後の彼女の作品や発言において印象深かった事々の原型がほぼ全て盛り込まれているように感じられた。 なかでも強く印象に残っているのが、人倫的な善悪を超えた“是非もない自然界の営みとしての人間の生”を逞しく描き出しているスケール感の大きさと、人間界における“産む性としての女性の受苦”だった。'06年に日経新聞のコラムに書いた「子猫殺し」と題するエッセイなどから世間を騒がせ論争を招いた彼女の死生観の源は、その十年前の刊行となる本作にも既に色濃く表れていたように思う。 「貧乏百姓はそんがぁいっぺえこと子を持つことはできね。さぇすけえ……おら……殺したがんだ」(P88)と、初潮を迎えたばかりの娘の妙に“鬼灯火の根を使った間引きの方法”を伝授する病床にある母親の「ほんね、おらも妙にこんがぁことは教えだくねえ。んども、おめもあと二、三年したら、誰かの嫁になるだろう。そおせば、男だらいうもんは、子のごとなんずなんも考えねすけえ、子を堕せばなんねえ時もでてくるはずだ。さあすけえ、どうしても子を殺さねばなんねえようになったら、鬼灯火の根を使うんだ。だけんど、それは命がけだというごとは忘れるなや」「女というのは損なもんだ。嫁ぎ先で朝から晩まで身を粉にして働いで、子を生んだら、育てるのにまだ大ごとだ。いらねえ子だと、その始末も自分でつけねといけね。男が羨ましいがんだ。仲間と一緒に山に猟に行ったり、酒飲んで騒いだりできる」(P89)といった言葉を「きっと、もうすぐ生まれるのだ。額から汗が吹きだした。引き裂かれるような痛みが腰から腹をわしづかみにする。私は途方に暮れながら両手で腹を撫ぜた。痛みに自然と背中が突っぱり、息が荒くなってきた。これなら、子堕しの苦しみと変わりはない。子を宿した腹が身軽になるためには、堕すにしろ、生むにしろ、どうしても痛みという代金を支払わないといけないというのか。女とは、なんと損なふうに生まれついているのだろう。」(P243)との言葉と共に紡いでいた著者が、ある種の透徹さで以て「子猫殺し」をものすることに何の違和感もないし、むしろ納得感のほうが大きかった。昨今の連中が「KY」などと言いながら発する言葉の軽さとは対照的な深みと誠実さがあるように思う。 そして本作は、妙の母の「おら、嫁いでがら何遍も思ったがんだ。このまま家を飛び出して、亭主も子供もいねえ山ん中にでも行って暮らしたらおもっしゃいだろうて……」(P89)との言葉通りの暮らしを余儀なくされた、いさ母子の物語だったわけだが、イサの山妣としての暮らしは、妙の母の言葉のように面白そうではなかった。人里の苦界を抜け出て自然界の苦境にあるほうが、いさ自身にとっては心穏やかだったようには感じられたが、てるがそうであったように、誰もが全うできるものではなく、むしろ耐え難いとしたものだろう。 そういう意味では、イサは特異なる女性だったのかもしれない。だが、「俺の考えではの、女だば二種類あると思うんだいや」(P342)と鍵蔵に語る喜介の言う「ひどづは川の底の石みでに我慢強い女だ。上を流れる水が汚がろうと、きれえだろと、頭の上のものがただ流れていぐのをじいっと待っでるあんだ。」と「もうひとつの女だば、川の中で転がる石みでなものだ。こごの瀬は厭だと思っだば、うめえごと川の流れさ乗っがって移っていっでしまうがんだ。」という二種類が別々のものではないことを体現しているように感じられた部分は、決して特異な部分ではなく、むしろ女性の普遍を語っているように感じられ、『コキーユ 貝殻』の映画日誌に「おそらく直子(風吹ジュン)は、谷川(益岡徹)の目に映った直子とはまるで別人の姿で浦山(小林薫)の前では存在することができたのだろう。それは装うとか偽るとかいうことではなく、浦山といるとそういう直子になれるのだ。それが女というものではないのかと思う。」と綴ったことを想起させてくれる女性像だったように思う。 「喜多治に惚れていた時とはちがう。喜多治に会いたいと思えば苛々し、いざ会うと喧嘩になってまたむしゃくしゃすることの繰り返しだったが、文助に会いたい気持ちからは、苛々は生まれない。ただ、寂しくなるだけだ。心の底に穴が開き隙間風が入ってくる。そして会って、文助を抱きしめていると、日溜まりでうたた寝をした後のような幸福な気分になれる。寒かった心の底にじんわり温もりが広がってくる。 この違いは、喜多治と文助の性格の差からくるのか、私の気持ちの違いから生まれるのか、よくわからなかった。」(P205)と思うイサは、山で出会った渡り又鬼の重太郎と暮らすなかでまた別人になっていたような気がする。だが、喜介=文助とても「鉱山の闇の中で私が遊女の皮を脱ぎすてた時、文助もまたそれまでの皮を棄てたようだった。一晩かかってようやく坑道から抜けだし、山中で隠れ暮らすようになってから、彼の中にあった気弱さや優しさは薄れていった」(P224)わけだし、改名もして別人になるのだ。女でも男でもない体に生まれつき「幼い時から…自分を誰か別の人間に見せることばかりに腐心し」(P90)つつ、「本当の自分とは、どんなものなのだろう。」(P90)と考える涼之助に限った問題ではない。 しかし、大竹イサが腐れ縁の宮川喜多治と別れて君香からイサに戻り、虚弱な鉱夫の戸田文助と出奔した挙句に棄てられ、山での重太郎との出会いと別れの後に山妣になろうとも、別人のごとく変転し続けるなかに不変のイサなるものがあることも強く感じさせてくれる人物造形を果たしていたように思う。そこのところを以て“本当の自分”と呼ぶべきものかどうかは一概に言えないけれども、少なくともイサに限らず人とはそういうものだということが沁みてくる作品になっていた気がする。 また、六年前に観た『武士道残酷物語』の映画日誌にて言及した『男たちの大和/YAMATO & 大日本帝国』の日誌に引いた、坂東眞砂子の地元紙への寄稿“大河ドラマにだまされるな”に示されていた気概が結実している作品だとも思った。 日露戦争開戦前の明治35年に起こった雪の八甲田山事件の頃から三十年近くを遡る大河の歴史的な時間と時代性を偲ばせつつ、決して「勝者礼賛の立脚地点に立ち、天皇、将軍、武将など史上有名な人物、英雄と呼ばれる人を取りあげ」るのではなく、それとは真逆のスタンスで創作されている。そして、妙の兄の藤一郎が「地主はいいもんだ。年貢米取れるだけでねえ、薪取りまで小作人にただでやらせることができるがんだんが…夏は草取り、秋は雪囲い作り、冬は雪堀り。なにかというと、小作人は地主の家に呼びつけられてただ働きだ。世の中、どっかおかしいがんだ。これじゃあ小作人はいつまでたっても、金を貯めて自前の土地を買うことはできゃしねえ」(P320)と語らせ、「小声で毒づき続ける兄に、妙は不安の混ざった眼差しを送った。 最近、藤一郎の言動はおかしかった。幾多の兄が中心になってやっている勉強会に出ているせいだ。…御託を並べていても、金はできはしない。だったら、文句をいうだけ無駄なのに、と妙は、ぼんやり考えていた。」(P320)という場面を添えたり、妙の姉である盲目の琴の謙虚な純真さに惹かれつつ「人生の理不尽さに対する怒りや悔しさを、阿弥陀仏への信仰で、うまくまるめこんで生きていることに腹が立った」(P133)という涼之助の姿を描いているところに、その真骨頂が窺えるような気がした。 十五年前に『死国』の映画化作品を観たときの日誌に「男の存在感など、女に必要とされる部分においてのみしか必要性が感じられないくらいに希薄なものでしかない」と記した部分を原作に当たってみたいと思ったのは、本作におけるイサの流転に心打たれたからのような気がする。 | |||||
by ヤマ '14. 5.28. 新潮社単行本 | |||||
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