『鉄道員(ぽっぽや)』
監督 降旗 康男


 “テネシーワルツ”は、親父の思い出の曲だと生前聞いたことがあって、数少ない遺品のレコード盤のなかにも“涙のワルツ”とカップリングしたパティ・ペイジの歌うEPがある。幼い頃よく耳にしたせいか、どちらの曲とも僕のお気に入りでもある。そんな要素が働いたからか、いささかセンチメンタルに過ぎる作品なのに、けっこうその気になって観てしまった。
 愚直の美学を演じて高倉健の右に出る者は、世界広しと言えども見当たらないと思わせるほどにぴったりと嵌まったキャスティングで、映像も美しく、泣かせる台詞がちりばめられていて、役者の表情もいい。いまどき無形文化財的価値観となり果てた感のある、男が持つべきものとしての“仕事への誇りと気概”といったものを想起させ、しみじみとした気分にさせる。艱難多く恵まれ報われることの少ない人生は、幸薄い人生だが、幸薄き人生であっても美しき人生たりうることを訴え、人の生の美しさとは幸の多少ではなく、魂の問題だと語りかけてくる。
 しかし、乙松(高倉健) の愚直の美学は、そのようにしか生きられなかった以上責められるべきでもなかろうが、決して褒めたたえられるべきものだとは思えない。社会の最小単位であり、礎となる“家族”に過度の犠牲を強いることを美化してはいけない。乙松自身の台詞にあるようにそれは彼の我が侭であって、我が侭としてみれば、やはり少々度が過ぎてもいる。それを自認しつつ、なおかつ犠牲を払う側にそれを受け入れ理解し評価してもらいたいと願う部分が何より度の過ぎている部分なのだろう。たとえそれが、そういうふうにポジティヴに捉え直してもらえなければ、愛する者にただ犠牲を払わせているだけでは申し訳なくて忍び難いという思いから生まれ出たものであったにしてもだ。仮に価値ある犠牲であっても犠牲は犠牲だ。犠牲を了解するかしないかは払うほうが決めるべきもので、払わせるほうが決めてはならない。にもかかわらず、愛の名の許にそれを願うことを全面肯定しているところがセンチメンタルに過ぎる作品となった所以だと思う。でも、だからこそ、この映画が支持されるんだろうなとも思う。
 乙松のなかで亡娘雪子の幻影を観るシーンが三度ある。最初は白日の勤務中で、実際の小学一年生の女の子の姿に幻影を重ねたのかもしれない。二度目は酔っているときで、その分、中学生の雪子には乙松の願望が明確に投影されている。三度目は高校生の雪子で、願望の投影が余りに甚だしいので、今はの際の夢のようだと思っていたら、本当に乙松が死んじゃっていたので驚きながらも納得した。

推薦テクスト:「神宮寺表参道映画館」より
http://www.j-kinema.com/poppoya.htm
by ヤマ

'99. 7.10. 高知東映



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