『クンドゥン』(Kundun)
監督 マーティン・スコセッシ


 宗教者を描いたスコセッシ作品といえば、僕にとっては '89年三月に観た『最後の誘惑』が印象深いものとしてある。パロディや揶揄の対象としてではなく真面目に正面から取り上げて、あれほど血の通った人間臭いキリスト像を提示した作家には、それまでお目に掛かったことがなかったような気がする。そのことがイエスへの冒涜だという非難をキリスト教界から招くことにもなったようだが、キリスト教者ではない僕にとっては、むしろ人間存在としてリアリティのあるイエス像であることが、その精神の気高さというものを感じ取るうえで、より効果的で説得力に繋がり、感銘を受けたという記憶がある。原作ものだとはいえ、そういう描き方を果たしたことで、スコセッシ監督作品として強い印象を残している。
 そんな思いが働いたからだろうが、『クンドゥン』においてダライ・ラマ十四世がどういう人物像として提示されるのかを楽しみにしていたのだが、その点では拍子抜けさせられたような気分だ。人間ドラマとして映画にしているのではなく、一大叙事詩として描いていた。その点では、事跡を追い綴る映像展開のスケール感やダイナミズムには、確かになかなか見事なものがある。でも、拍子抜けは、自分の求めていたものと異なるせいだったとしても、見い出された少年がいかにしてダライ・ラマ十四世となっていったのかという部分は、もっと突っ込んで描いて欲しかった。
 志は高くても、マスターベーションもする貧しくしがない若者として十年前にイエス・キリストを描いたスコセッシが、見も知らぬはずの先代の記憶を幼いうちから宿しているという、まさに生まれ変わりの存在としてダライ・ラマを描いていることには、やはり少々違和感がある。宗教の世界での聖人どころか神そのものでもある存在を人間として捉え直す視線を嘗て持った作家が、叙事詩でございと事跡を綴り、人間存在として迫ろうという視線をほとんど放棄していることにも、やはり違和感がある。
 とは言え、“厳粛、気品、盛観、華麗、それら全てがここにある。ラスト30分の壮大なシーンは映画の限界を越えている。”とチラシに綴られていたように、出チベット記ともいうべきラスト30分は、確かに見事なものだった。中国赤軍の武力進攻で一掃されるラサの都そのままに掃き消される美しい砂絵が印象深く、究極の映像美と謳われた映像もさることながら、その30分を格調高く支えていたのは、とりわけ音楽で、フィリップ・グラスの功績が顕著であったように思う。

推薦テクスト: 「マダム・DEEPのシネマサロン」より
http://madamdeep.fc2web.com/kundun.htm
by ヤマ

'99.11. 2. 県民文化ホール・グリーン



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