『ガタカ』(GATTACA)
監督 アンドリュー・ニコル


 近未来を描いた映画は、この十数年来ペシミスティックな予見に基づくものばかりである。『1984未来世紀ブラジルブレードランナー』『ロボコップ』『フィフス・エレメント』…いずれをとっても冷酷な監視社会で人間的なものがひどく抑圧されていて病的なものを感じるのだが、それに同化できない或はあらがう主人公たちでさえ、どこか病的なものを拭えない印象で、作品的には面白くても後味の良くない不健康な映画だったという気がする。ところが、この『ガタカ』は、冷酷な監視社会を前提としている点では前記の作品群と同じはずなのに、病的な不健康さを感じさせるどころか、むしろ健康的で清涼感のある後味を残すところがこれまでの作品群にない味わいで印象的だ。

 『ガタカ』では、遺伝子操作で完璧なDNAデザインを施された生まれながらのエリートのみが社会の適性者として優遇され、劣等の遺伝子を持ったまま生まれた不適性者は、あらゆる面で差別を受ける。人種でも性別でも家系でも資産でもなく、遺伝子の優劣が総てを決定するのである。いずれにしても個人の自己実現の度合いといったものがはなから問題外であるという点で、従来からの差別の構造と全く性質が同じだ。ある意味では、より科学的で検証可能である分だけ性質が悪く、何はなくとも差別だけは統治秩序のシステムとして必要とする人間社会というものが、性別や門別あるいは人種などといった口実や材料を奪われてくるなかで、技術革新とともに見つけ出したものだという感じすらあり、いささかやり切れない。それなのに、この作品が健康的で清涼感のある後味を残すのは、不適性者として生まれたビンセントがそのシステムの破壊をしようとするのではなく、システムに挑む形で、夢の獲得と自己証明のための強烈な自己実現の意志により冷酷で強大なシステムと拮抗しようとし、それを果たしたからだ。

 社会システムから弾かれた者がそのシステムに抗い、部分的にそれを破壊して勝利を得、観る者にカタルシスを与えるというのは、よくあるパターンだが、その際には破壊者である主人公は、病んだシステムから疎外された被害者として、彼の破壊しようとするシステムと同様にある種の病を背負っていることが多いし、そもそも破壊という行動自体が、まるまる健康的という感性とは馴染みにくいものだとも言える。この作品が健康的で清涼感のある後味を残したのには、そのパターンに陥らず破壊と繋がらない物語であったことも大きい。そして何よりも、人知を超える人間の可能性というものに対する信頼感が底流にあるところが、健康的だと感じられたゆえんだろう。

 硬質でいて官能的な洗練された映像感覚が実に斬新で、殺人事件を巡るビンセントの謎と秘密の展開を綴る演出が緊迫感に満ちたスリリングさを保っていて見事だった。訓練生が黒一色のユニフォームトレーナーを着て横一線に並んで心拍計測されながらルームランナーで走っている部屋の不気味な全体主義的監視体制の空気を顕著に窺わせた例の印象深い映像もさることながら、打ち寄せる波のヴァーチャル世界のなかでのアイリーンとビンセントのベッドシーンが気に入っている。天地が逆さまになったヴィジョンがいい感じで、波のたゆたい、無重力のたゆたいから宇宙への連想とつながり、心地好かった。また、コンタクトレンズを外したビンセントの目に映る光景とアイリーンの目に映る光景の組み合わせが、殊に壮大なソーラー発電所(?) の光景の見事さとともに印象に残っている。




推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://www28.tok2.com/home/sammy/scifi/gattaca.html

推薦テクスト:「yt's blog」より
http://blog.livedoor.jp/thinkingreed0605/archives/11055013.html
by ヤマ

'98.10.23. 県民文化ホール・グリーン



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