『都会のアリス』『ベルリン・天使の詩』そして梅本氏


 第1回高知自主上映フェスティバルにて横浜国大助教授で映画評論家の梅本氏がヴェンダースとルビッチについての講演を行なった。そう多くを語ったわけではない。しかし、一つ、重要なことをくどいほど繰り返した。『さすらい』でも『都会のアリス』でも船と船、汽車と車、車と人、人と人、それらのものは総て必ず並んで動くか、擦れ違うものとして撮られます。映画はそうでなければなりません。

 その理由も目的も語ることなく、ただ繰り返しそう述べることは批評とも解説とも言えるものではない。しかし、この一言を耳にした後でヴェンダース作品の原点とも頂点とも言われる『都会のアリス』を観て、パリ・テキサス『ハメット』『ベルリン・天使の詩』という、これまでの余りにも貧しい僕のヴェンダース体験のなかでおぼろげであった、小津安二郎との間に感じられるコミュニケーションという共通テーマの存在と『ベルリン・天使の詩』という作品の持つ意味が一挙に明確なものとなった。それについて述べる前に、前記の梅本氏の言葉を「…(ヴェンダースの)映画はそうでなければなりません。」と補っておきたいと思う。

 初めて観た『パリ・テキサス』のなかに、人生の着実な歩みという連続性から記憶喪失という形でドロップ・アウトしたトラヴィスという男が登場する。彼が病的なほどの憔悴のなかで見せる奇妙な行動は、総て連続性へのこだわりである。例えば、飛行機に乗れないのは、大地から切り離されるからであり、交換したブーツを履いた後それまで履いていた靴と靴の裏をこすりつけ合うのは、歩みの継続のための儀式とも言えるからだし、眠ることが余りできないというのも、連続性へのこだわりと読み取れる。『ロード・ムーヴィ』と言われるヴェンダースの映画には乗物による移動がつきまとうわけであるが、移動こそはまさしく視覚的な連続性そのものと言える。人の生という視覚的に示しにくい時間と命の連続性を移動という連続性を端的に表わす行為を装置とすることによって象徴しているのである。そういう前提のなかで、同方向であれ、逆方向であれ、動く物は総て平行線上を移動しなければならないし、一緒に移動する人間が必ず登場して、彼らは同じ向きに並んでいなければならないというのは何を意味しているのであろうか。平行線というのは決して交わらないとともに決して離れて行か ない位置関係を表わしている。

 中世封建体制の解体のなかで私有財産の制度的な保障とともに「公」に対する「私」の概念を獲得し始めた人類は、近代において「個」の精神を獲得するが、その代償として同時に請負わなければならなかったのが「孤独」であり、「神の不在」である。それはかつての人類が決して知ることのなかったものであり、かつての物質的な生活の厳しさに匹敵するほどの精神生活の厳しさをもたらした。言われるところの様々な現代社会の病理というものはとどのつまり、人類がこの孤独というものを引き受け切れないところから発している。「孤独」を背負い切れない人類が「神の救い」も求められないなかで切実な課題として求めているのがコミュニケーションである。現代とはそういう時代なのである。そして、現在、コミュニケーションを語る時、多くの場合が接近を意味している。しかもそれは交わることを目指した接近なのである。

 それに対して、ヴェンダースは決して交わることのない平行線によって現代人の背負う厳しい孤独を見事に表現するとともに、決して離れていかないことによってコミュニケーションを表現したのである。交わる直線は、交わったが最後、より遠くへ離れていくしかない運命にある。しかも厳しい孤独を背負う現代人には、その交わることすら幻想なのだ。それは言わば、初等幾何で言うところの「直線のねじれの位置関係」を2次元の座標に投影したものでしかない。人間が2次元世界に生きるのではなく、3次元世界に生きる存在である以上、2次元に投影して初めて得られる交点を3次元の世界で獲得できるはずがない。直線すなわち人が交わりを求める時、その関係はねじれの位置でしかなく、その直線上を移動するすなわち生きることは、決して交わりを得ることではなく、束の間の接近と果てしない隔絶に到ることでしかないのである。そこにあるのは、ディスコミュニケーションでしかない。いずれ交わることのない直線の上を移動するならば、決して離れていくことのない平行線としてでなければ、一定の距離を保ち続けるすなわち安定したコミュニケーションを成立させることができない。 コミュニケーションとは、相手との距離を知り、それを保つことだからである。

 アリスとヴィンターはスクリーンのなかの数多くの平行線を共有しながら移動を続けることで、厳しい孤独のなかの確かなコミュニケーションを自然に獲得していく。『パリ・テキサス』のトラヴィスとハンターもそうであった。それらは、安易な言葉や感情表現による作為を感じさせるものではなく、関係というより、存在としてのコミュニケーションである。そして、まさしく小津安二郎の作品のなかで捉えられ、描かれたコミュニケーションと共通するものなのである。

 この観点からすれば、『ベルリン・天使の詩』もその基本的な形態は平行線である。人間のそばに並んで立ち、決して交わることのない天使の存在そのものが平行線である。『ロード・ムーヴィ』で即物的なフォルムとしての移動によって平行線を直接映像にしたヴェンダースが、ベルリンに留まり、移動を断念した時に、イメージのフォルムとしての天使の存在によって平行線を映像にしたのである。従って、天使の登場には必然性があり、移動はしなくても一貫したフォルムに支えられていると言わなければならないし、それ以上に、それまでの視覚的にこだわっていた平行線の意味をイメージによる表現によって明示していると言えるのである。それにしても、一連の作品群を貫く見事な一貫性である。しかもどの作品も適確に現代という時代を捉えている。それに気づくに至って、先程の梅本氏の言葉は、「…映画はそう(いうもの)でなければなりません。」と補い直されなければならない。それと同時に、平行であることの理由も目的も語ることを留保して発見することの楽しみを残しておいてくれた梅本氏に評論家・批評家である以上に大学の教職者であることを感じるのである。

 しかし、そうして観れば、マリオンに恋をして人間になることを天使ダミエルに選ばせたヴェンダースの意図は何であろう。一歩進んで、交わることを断念した平行線にも平行移動という接近の仕方があり得るのであり、接近することへの憧れと希望は失わなくてもいいと言っているのだろうか。あるいは大胆にもねじれの位置関係の世界に足を踏み入れたのであろうか。それが恋なのだと言っているのなら、ヴェンダースは誰かに熱烈な恋をしたのかもしれない。あるいはまた、回答を与えた今、自分は新たなフォルムを模索するという宣言なのかもしれない。いずれにしても、これからのヴェンダースが変るかもしれないとの期待と不安を予感させてくれる作品と言えそうだ。今後の作品が一層興味深くなった。その意味でも今回、講演に続いて『都会のアリス』が上映されたことは僕にとって意義深いことであった。




推薦テクスト:「Fifteen Hours」より
http://www7b.biglobe.ne.jp/~fifteen_hours/ALICE.html
by ヤマ

'90.10.28. 県民文化ホール・グリーン



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