『草原の愛 -モンゴリアンテール-』(黒駿馬)
監督 シエ・フイ(謝飛)


 あるものに聖性が付与されると、そこからはみ出るものはタブー化される。そのような意味づけをおこなう価値観の体系というものがまさに文化の本質であろう。しかし、そういった文化というものは、人にしか認識できないものである。性の問題に関しても、それゆえに人の性の営みだけが動物の生殖行為とは区別され、かつては神聖にして忌むべきものだった。だが、その営みそのものは、動物の生殖行為と同じく、本来、格別神聖なわけでもなければ、忌むべきことでもない。だからというわけでもなかろうが、昨今、性行為のタブーが加速度的に消滅してきている。それは即ち、性から神聖さが失われてきたことの裏返しでもある。だからといって勿論、聖性を失うことが、性における一切の意味を無化するわけではない。
 性に対する意味づけにおいては、ごく大雑把に言って、子を為すことに最も大きな意味が与えられた時代から、愛を至上とする時代を経て、欲望としての性が肯定される時代を迎えているという気がする。生命の誕生や愛といったものに神聖さを付与することに較べて、欲望には聖性を与えにくい。それにもかかわらず、性に対する意味づけがそのように変化してこざるを得なかったことが、性のタブーを消滅させてきているように思う。そして、この意味づけの変化は、ことさらに女性の性行動とモラルの変化に対して大きな影響を及ぼしてきた。性のフィールドでは、女性は男性以上に主役を担わされる存在であるゆえに、それもやむを得ない。しかし、それらの変化は、ある意味で女性の権利と自覚の進化発展を証左しており、必ずしも否定的な側面ばかりを持っているのではない。
 この作品のなかで最も強烈だったのは、育ての親であるおばあさんがバヤンボルグに言った、「ソミヤーは、妊娠しただけだよ。子を産み、育てるのは、女の人の務めなんだよ」という言葉であった。愛する女性が他の男と関係を持っただけでなく、妊娠までしてしまったことに思い悩む若者に、「妊娠しただけ」と言ってのけるところが何とも凄い。
 現代というよりも近代的な価値観によるモラルに影響されやすい者にとって、愛と性を切り離すことは自然な感覚としてはしにくいものだけれど、その際にも、愛不在の性を庇うのに、欲望の肯定によるといった現代的な価値観ではないところが新鮮で強烈だ。実子ではない子を慈しみ育ててきたおばあさんだからこその言葉だが、バヤンボルグには理解することができない。しかし結果的にも、愛を愛として性から独立させて考えることができなかったために、愛の成就を果たせないで、生涯の悔恨と無念を背負わざるを得なくなったのだから、おばあさんの言葉は正しかったのだ。十数年を経た後に、ソミヤーを探し求め、ツェツェグを自分の子として育ててほしいと申し出たときに、「なぜ、あのとき、そう言ってくれなかったの」と言われ、うな垂れるバヤンボルグは、哀れだ。
 しかし、時を経た後といえども、そういう申し出をするに到るというのは、やはり凄いことだ。おばあさんとソミヤーへの思いと絆というものが、彼にとって如何に深いものだったのかが偲ばれ、またそれだけに彼が出ていったときの苦悩の深さが偲ばれる。
 それにしても、ソミヤーが不妊手術を受けたことでアイデンティティの喪失不安を抱いている姿には、子供を産み、育てることだけを自らの拠り所としてくるしかなかった彼女の辛い人生が浮かび上がっていて、痛ましかったし、彼女にとって不妊手術がそれだけ重い意味を持つものでありながら、不妊手術は女性にするのが当たり前だというモンゴルの状況が哀れであった。
 乳飲み子を抱えて路頭にまよっていたソミヤーを捨て置けず、彼女と結婚したという夫は、女性への愛といたわりというよりも、男の誇りとこの家の男どもはどうしているんだとの義憤から、彼女たちを引き取ったのだから、避妊と不妊手術とでは女性にとって持つ意味が大きく異なることを配慮できないのも無理はない。しかし、だからこそ、ソミヤーが母性をもってのみ自らのアイデンティティとするしかない人生を送っていることが哀れなのである。特におばあさんに象徴的な母性というものの大きさ強さを再認識することは、現代において、大変大事なことだという気がするし、この作品は、そういった母性というものを感動的に謳い上げていると思うのだが、それでも母性でだけ生きている女の人を見るのは、たとえ健気で美しくはあっても、男としては少々辛い。

by ヤマ

'97. 8. 1. 自由民権記念館ホール



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