『ミルドレッド』(Unhook The Stars)
監督 ニック・カサヴェテス


 入り口で上映会関係者に小品の佳作だと言われたので、そんなもんだろうと思って観たら、なかなかどうして相当の作品だ。落ち着きがあり、品性豊かな大人の映画だ。38歳とは言え、新人監督の初監督作品とは思えない風格と人間観察の確かさがあった。父、ジョン・カサヴェテスとは全く異なる印象の作風である。
 少々乱暴な言い方だが、アメリカ映画は、善きにつけ悪しきにつけ、主張も表現も分かりやすくて明確で、作り手の意図を率直に伝えてくるが、ヨーロッパ映画は、主張も表現も暗示的で曖昧であり、観る側の想像力を刺激し、喚起させる傾向にあるように思う。従って、スカッとするカタルシスや感情的な昂ぶりを誘うような感動は、ヨーロッパ映画では得られにくいし、微妙な味わいや奥行のある陰影は、アメリカ映画では得られにくい。
 そういう点では、この作品は、あくまでアメリカ映画の良さと特徴を持ちながら、非常にヨーロッパ映画的な味わいをもたらしてくれる。登場人物のキャラクターが明解なのは、きわめてアメリカ映画的なのだが、その関係の微妙な変化や揺らめきの捉え方は、実にヨーロッパ映画的な表現によって構成されているように思う。
 特に印象深いのが、ミルドレッドと息子とのやり取りである。彼女が最も可愛がり、長じて社会的に成功も果たした、言わば自慢の息子だ。彼女は、夫に先立たれ、娘と二人で暮らしていたが、娘のほうは、総てに優越した存在であることを誇示しているように見える母親が欝陶しくて、家出をしてしまう。息子は、転職して西海岸に引っ越す際に、妹が家を出たために母親が一人暮らしになっていることを知り、形ばかりのつもりで母親を誘う。彼女がそうしてもいいかなと乗りかけると、忽ちうろたえて、慌てて「母さんには、母さんの生活があるし、住み慣れた土地を離れるというのも大変だろうし…」などと言って、たいそう彼女を傷つける。そのくせ妻が妊娠したと知るや、子守りを手伝って貰いたくて、豪華なフロアを用意し、いささかも悪びれた様子を見せずに熱心に誘う。その身勝手な無神経さに対し、傷つけられたことを責めるのではなく、息子を我が侭に育て過ぎたという悔恨と忠告を言明して東海岸に帰っていくミルドレッドの姿は、颯爽としていて格好がいい。でも、帰ってみると、娘に出て行かれた後の一人暮らしの寂しさを癒してくれていた隣家の6歳になる男の子JJやその若き母親モニカが、取り戻した家庭の絆のおかげで既に彼女を以前ほど必要としなくなっていることを知らされる。
 そのときにミルドレッドが向き合う孤独が味わい深い。息子に対して颯爽と格好がつけられたのもモニカ母子との関係があってこそで、そういう意味では、息子に対して投げ掛けた「都合良く人をあてにしている」という言葉がそのまま自分に返ってくるものだったことにきちんと向き合っているし、娘が出て行ったとき以上に孤独を感じている自分と出会い、静かに子供たちと自分との関係を振り返り直している。
 より強い孤独を味わうようになったのは、おそらくは、モニカに誘われて行ったバーで出会った大型トレーラーの運転手ビッグ・トミーが、穏やかに失くしていくのが当たり前だと思っていた生命のエネルギーを思いも掛けなかった形で呼び戻してくれたためだろう。生命のエネルギーが増大すれば、喜びも悲しみも感情体験そのものが生き生きしたものとして強く感じられるようになるのは当然のことだ。老いを静かに受け入れていく人生を生きていたはずのミルドレッドが、住み慣れた家を処分し、新たな人生を求めて旅立つことができたのも、そのおかげだろう。彼女のその姿は、なかなか素敵でカッコイイ。
 しかし、そういった事々は、会話のなかの直接的な台詞や劇的な葛藤のなかで描かれたりはしない。ジーナ・ローランズの巧みな演技と演出の確かさによってさり気なく綴られる。基本的には、この作品の筋建ては、チラシにもあるように、ミルドレッドとJJやモニカとの関わりが中心になって語られるべきものとして構成されている。それでいて、観る側の想像力を喚起し、味わい深く強い印象を残すのがミルドレッドと彼女の子供たちとの関係のほうであるという構成は、心憎いばかりである。誰が使っても暑苦しくなるドパルデューを、脇役としてスマートに使いこなした手腕を見ても、ただ者ではないという気がした。

by ヤマ

'97. 9.18. 県民文化ホール・グリーン



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